新元号は
に決定しましたね!
官房長官、緊張の面持ちでした!!
語源は日本最古の和歌集「万葉集」、梅花(うめのはな)の歌からとったとのこと。
特定の個人との結びつきを避けるため、元号の発案者は匿名。
万葉集おさらいです。
『万葉集』は、いつ頃誰によって編集されたのでしょうか?
実は、正確にはわかっていません。
『万葉集』には、書物の本文の最初に添える文章である序文や、書物の本文の後ろに添える文章である跋文がなく、また同時代に書かれた他の書物にも『万葉集』について書かれたものがないからです。しかし、『万葉集』の作歌の中には、誰がいつ読んだのかはっきりと明記されているものも存在するので、いつ頃成立したかが概ねわかります。
最も最新の作歌年月が明記されている歌は、759年1月1日の大伴家持(おおとものやかもち)の作です。
したがって、『万葉集』が759年以降に成立したことは間違いありません。
(参考:日本で最も古い歌集『万葉集』の成り立ちと楽しみ方とは)
実際に梅花の歌を見てみると、下記のような文章が確認できるようです。
梅花(うめのはな)の歌 三十二首并せて序
天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述※1(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
現代語に直すと👇
天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
解説によると、この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。
その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。
当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。
(中略)
この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。
後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。
と解説がされているようです。
(参照:万葉集入門)
母音が平和と同じためか一瞬平和に聞こえました。
和歌から引用された元号は今までないとのことで、風流を感じますね!
画数が少ないのも好感が持てます♬