今回は読書感想文コンテストに参加してみたいと思います。
大街さんの「夏の読書感想文」企画、夏を盛り上げてくれる最高の企画ですね😃
という事で、芥川賞厨のわたしが、前回仮想通貨関連の小説として話題になった第160回(2018年下半期)- 上田岳弘「ニムロッド」に続き、今回第161回(2019年上半期))- 今村夏子「むらさきのスカートの女」について書いていきたいと思います。
前回の読書感想文「【ニムロッド】仮想通貨民が話題の小説を読んでみた結果【芥川賞受賞作】」についてもよろしく~(☆ゝ3・)σ
登場人物はむらさきのスカートの女と黄色いカーディガンの女(主人公)となっており、黄色いカーディガンの女目線で物語が語られていきます。
【登場人物】
むらさきのスカートの女…いつもむらさきのスカート。商店街では誰もが知っているちょっとした有名人。子供たちがちょっかいを出すのを無表情で受け流すような存在。数か月仕事をしては辞め、を繰り返している。
黄色いカーディガンの女…主人公。むらさきのスカートの女に興味あり。半年以上観察を続けていて、行動パターンや生活状況を把握している。ホテル清掃員として勤務。無銭飲食、家賃不払い、ホテルの備品をバザーで転売。
全体的な流れとしては黄色いカーディガンの女がむらさきのスカートの女を観察することに終始します。
ある時は商店街でむらさきのスカートの女に体当たりしようとしてかわされたり(むらさきのスカートの女は商店街の人込みを誰にも当たらずスイスイと進んでいく人!)、
ある時はむらさきのスカートの女がいつも座る公園のベンチに求人情報誌を置いておいたり(むらさきのスカートの女はこれまで観察してきた中でいまが最も無職期間が長い人!)
と気にかけているのが通り越して、観察・ストーカー状態になっています。
むらさきのスカートの女に興味があって、観察を続けており、この仕事をいつはじめて、いつ無職状態になり、どこに住んでいて、商店街で何を買って、その後公園で、何を食べているのかを逐一観察していきます。
本文冒頭ではむらさきのスカートの女がそのやせ細った風貌やいつでも商店街に姿を現すこと、化粧っ気のなさなどを理由に、風変りだと思われたり、ピントが外れた人間、あるいは疎まれているような存在、といった書き方となっているのですが、物語を読み進めるにつれて、読者は、この二人の人物が同一人物なのではないかと思うような視点(別人としては無理がある状況の描写)を獲得していきます。
観察の度が過ぎて、黄色いカーディガンの女の不気味さが漂っていたり、読み終わった後、むらさきのスカートの女と黄色いカーディガンの女は上半身と下半身が一つにつながった同一人物なのではないかという錯覚を覚えていくのも特徴といえるようです。
多少変わった人物を淡々とした語り口調で異様なまでに観察し続ける描写が、狂気を感じさせるとともに人間への深い興味、ミステリーに迫るものがあります。
ちなみに、むらさきのスカートの女の単行本の表装は1つのスカートに2人の脚が生えているような不気味さ、異質さが垣間見れます...。
さながら映画『シャイニング』の血まみれの双子の姉妹を思い出してしまいそうです…ぞぞぞーっ。。。
特にむらさきのスカートの女が黄色いカーディガンの女と同じ職場で働き始めることになってからは(これも黄色いカーディガンの女が求人情報誌で自分と同じ職場に〇をつけてアピールした結果!)その社会的立場が逆転していくような感覚を覚えます。
むらさきのスカートの女は実は順応力が非常に高く、仕事もすぐに覚え、果ては上司と愛人関係になるくらいには順応していってしまうのですね。
ちなみに受賞インタビューを見る限り、作者自体はむらさきの色へ対する特別な意識はなさそうな言い方でしたが、色相学では紫の補色(反対色)は黄色であり、色相差が最も大きいのでお互いの色を目立たせる効果もあるとのこと。
こういった背景もあってか、むらさきのスカートの女と黄色いカーディガンの女の存在がお互いに支えあい、入れ替わり、融合して溶けていくような捉え方もできるのではないでしょうか。
物語の最後、むらさきのスカートの女がいなくなって、固定席である公園のベンチを確保するつもりで座った公園のベンチにて、黄色いカーディガンの女の肩が叩かれるシーンにはドキッとさせられました。
読書感想文なので、本作を読んでいて個人的に感じたことなどをあらためて書き留めておくと、芥川賞は今回で第161回目の作品となり、2019年7月の受賞なので、2019年4月に平成から令和に改元があったため、令和時代初の芥川賞受賞という位置づけとなりました。そういったこともあって、特に時代背景に個人的には注目したいのですが、そういう意味では全体として感じるのは「貧困ながらも明るい、コミュニケーション不足がちな」雰囲気でしょうか。
なぜむらさきのスカートの女は職業を転々としながらボロアパートに住んでいるのか、
なぜ主人公の女はガラスの修理代を追うだけで家賃が払えなくなるのか、無銭飲食をしなければ、バザーでモノを売らなければならないのか、
なぜ主人公の女はむらさきのスカートの女と話すために体当たりを試みたり、自分の職場へのむらさきのスカートの女を誘導をしなければならなかったのか、
なぜ主人公の女の働く職場はホテルでの清掃員でなければならなかったのか、
と考えてみるとその背景に資本主義社会の末端で働く者の生活状況や貧困(のループ)、コミュニケーション下手・引きこもりがちな個人、SNSなどにより個人の情報が多く知れ渡る社会的背景(本文中にSNSなどの文言は一切出てきませんが)やそれに付随したストーカー被害など様々な問題などが浮かび上がってくるのではないでしょうか。
平成という時代を総括して、どういった時代であったかを後々振り返った時、昭和の終わりから平成初頭にかけての好景気が一段落し、失われた20年、30年ともいわれる経済成長の停滞や、高齢化社会で「1億総活躍社会」と名を打った女性が多く働き始めた時代背景などを考えると、本作にはそういった平成の終わりを象徴とするような肉体労働者としての”女性の働き手”の一人暮らしをするだけで精一杯、いわゆるの貯金もできない状況="貧困"や、女性が働きに出ることによるストーカーや痴漢などのストレスによる新たな迷惑行為などの蔓延、職場になじめなかった人が転職を繰り返す状況などを描いた作品ともとれ、また、そこに暗さがあるかというとそういうわけでは決してなく、身の丈に合った楽しみや仕事があって同じような同僚がいて、家賃不払いをしても無銭飲食をしても必ずしも捕まるわけでもなくある意味では豊かで、といったような平成の終わりの社会的な状況をより的確に描いているともとれ、より作品の奥深さを与えているのかもしれないと感じるところがありました。
令和時代後期やそれ以降の時代の世代が本作を読んだとき、もしかしたらこのような時代背景が理解されずといった状況もありうるという意味では、こういった時代を描写、特徴づけるような人物、生活、職への意識、社会的政治的背景などの配置の仕方は時代に合ったもの、という評価もされうるのではないでしょうか。
以下、雑感
芥川賞選評委員の高樹のぶ子は、女は「羨望や恨みや韜晦の情動から、時にこのような別人物を創造する」としていますが、その選評には納得感がありました。
物語自体は非常に平易な文章で書かれているので、1~2時間もあれば読めてしまうのですが、当然のことながら別人物として書かれているむらさきのスカートの女と黄色いカーディガンの女を別の人物として捉えるのか、同一人物として捉えのか、あるいは妄想なのではないかということでこの小説の見方が変わってくるというのが選評委員会で色々な読み方ができると話題になり、それが評価にもつながったようです。
今村夏子さんという方は、わたしははじめて読んだのですが、書けば必ず評価されるという新進気鋭の作家さんのようで、広島出身、大阪在住、Wikipediaによると、
29歳の時、職場で「あした休んでください」といわれ、帰宅途中に突然、小説を書こうと思いついたという。そうして書き上げた「あたらしい娘」が2010年、太宰治賞を受賞。同作を改題した「こちらあみ子」と新作中篇「ピクニック」を収めた『こちらあみ子』で、2011年に第24回三島由紀夫賞受賞。
~中略(半引退状態)~
2016年、新創刊された書肆侃侃房の文芸誌〈たべるのがおそい〉で2年ぶりとなる新作「あひる」を発表し、第155回芥川龍之介賞候補に挙がった。同作を収録した短篇集『あひる』で、第5回河合隼雄物語賞受賞。2017年、「星の子」で第157回芥川賞候補、第39回野間文芸新人賞受賞。2019年、『むらさきのスカートの女』で第161回芥川賞を受賞。
Wikipedia
と、書くことが楽しくも辛いとしながらも、書けば何かしらの賞を受賞してしまうという華々しい経歴を持っているようです。
わたしは権威に弱いので(笑)、こういった作家さんは追いかけていきたいなぁと思ったりもします。
特にわたしが小説を読むうえで気にしているのは、この作品・作家さんはどいうことを言いたいのかなぁ、という主題であったり、モチーフ(芸術表現をする動機である着想)の部分なのですが、そういったものが顕著に現れるのが1作目であることも多く、あたらしい娘(改題後、こちらあみ子)についても夏休みに読んでみたいなと思いました!
読み手に様々な興味を抱かせる今村夏子さん、今後も注目していきたいとおもいます٩( ''ω'' )و