時は2030年。日本は東京オリンピックを終えて以降、誰もが陰鬱な表情で街を歩いていた。その理由は間違いなく、日本国内の景気の悪化にあった。
ゆるやかに、それは実感としては捉えられないほどゆるやかにではあったが、それでも日本経済は着実に下降線の一途を辿っていた。その様子は街を歩いている群衆の表情にもしっかりと反映されている、悲しいほどに。
街中のビルの大きな液晶画面では、討論番組が放映されている。その内容が不気味なほど静かな街に響き渡る。
日本の景気が悪くなった理由を各分野の自称プロフェッショナル達が、それぞれに持論を立てて議論している様子が流れている。
『観光事業が低調だからですわ』
一人の自称・観光ジャーナリストの女性は胸を張ってこれが正論だと主張する。
『いや、金融政策が悪いからだ』
金融に精通する専門家が、彼女の意見を遮るようにしたり顔で反論する。
メディアではこのような討論番組をよく見かけるようになった。ただこれらの討論番組は議論の過程を楽しむだけであって、根本的な答えや明確な解決策を探そうとは決してしない。
どの番組でも最後は、司会アシスタントの何もわかっていなさそうな若い女性が
『貴重な議論をありがとうございました、それでは次回もお楽しみに!』
と、さも問題が解決したかのように、にこやかな笑顔で女性は番組を締めくくる。
先ほどの日本経済の低迷。表立っては誰も云わないが、皆うっすらと原因が分かっていた。
「今までの政策が、もう噛み合わなくなってきている」
人口ボリュームのあった世代が定年を迎え、労働人口がますます減っていく現状。
終身雇用制度が今の日本とかみ合わなくなっている問題。
さまざまな問題が、日本政府と国民に襲い掛かっていた。
またその流れと逆行するように、仮想通貨などの電子決済のサービスが、目覚ましく台頭していた。その影響力は凄まじく、すでに政府が目をつむることが出来ない程、日常生活に入り込んできている。
例えば、サービスを享受する際に仮想通貨で決済できるようになっていた。たったカード一枚をかざすだけで。
その代表的な例はバイト代や給料。
仮想通貨で支払うことが法定通貨で支払う事よりも、主流になってきていた。
その変化を目の当たりにした国民は一つの結論に至った。
「日本円など頼りにしなくても生活出来るぞ」
そのことは企業に依存して労働を行う従来スタイルの意欲を、国民から根こそぎ奪うという意義とまったくの同義であった。また政府に忠誠を誓うという意味においても、法定通貨の信用力は大きな鍵を握っていた。その鍵は歴史という風にさらされ続けて、今まさに風化しようとしている。
このままではいけない、とうとう日本政府が重い腰をあげた。
政府は大掛かりな政策に取り組むために新たな省を創り上げたのだ。
――その名も『評価経済省』。その名の通り、新しい経済メカニズムの動向を調べて、国内にもその流れを取り組むために発足された省である。
この省のトップである大臣に、なんと官僚未経験である牛瓦正彦(うしがわらまさひこ)を政府は就任させた。この恩恵を被ることになった「評価経済省」は、メディアからたくさんの脚光を浴びることとなる。
牛瓦正彦は大学卒業後に、一般企業に就職。しかし1年足らずで、その企業を退職する。そのまま海外放浪で何十年と旅を繰り返し、40歳の誕生日を契機に日本へと帰ってきた。その年はちょうど2020年。日本では東京オリンピックが開催されており、日本国内が大盛り上がりを見せていた時である。間違いなく、彼はオリンピックを観戦しに帰ってきたのだろう。
そのまま日本で特に目立った経歴もない彼だが、帰国後からSNSを通じて『評価経済』に関する持論を発信してきた。海外放浪記やジョークも交えて発信し続けた結果、百万を優に超えるフォロワーがつくこととなる。つまり彼はこのSNSのおかげで、国内での影響力を図らずともつけていく事になった。
牛瓦が影響力をつけていった一因には、国の不景気が大きく関係している。こんな不景気な信頼できない国家よりも、彼のようなバラエティー番組で好き勝手に話す自由者になりたいと皆が徐々に思っていった。その好奇な眼差しはいつしか、羨望の眼差しへと変わっていった。日本経済が深刻になっていくほどに。一昔前なら、彼のような存在は言語道断の失笑話であったはずだ。だが日本国内は、それほど深刻であったのだ。
「よろしくお願いするよ」
牛瓦正彦の手が重厚な漆塗りで装飾された風情ある机の上から差し出された。私は愛想笑いを浮かべながら、ガッチリと彼の手に応じた。
評価経済省・次官である私、国平明(くにだいらあきら)は苦悩していた。この部屋に初めて訪れてある事を確信した。趣味の悪い金屏風に見たこともないほど鬱蒼と茂る観葉植物の数々。きっとこれらの植物も机同様、お高いのであろう。就任初日の割には、あらゆるものがこの広大な部屋に揃いすぎである。
おそらくこの人は使い物にならないと直感した。
彼の元に近づくまでに数十歩も要するだだっ広い部屋は全く必要ないと心から思う。
「上からの命令で、早急に『評価経済決済法』の政策を立案せよとのお達しが出ています。何か提案に関するご要望はありますでしょうか?」
「んーそうだね。じゃあ面白い人を優遇する政策にしよう」
牛瓦は近くに立っている側近を手で動かす。コーヒーを淹れるように催促しているようだ。
「面白いとは?」
「面白いっていったら僕のように経歴が特殊な人だよ。例えば1日だけで学校辞めていたりさあ」
「他には?」
私は彼の頭はどうかしていると思った。
「それを考えるのが、君の仕事だろう。しっかりしたまえよ」
牛瓦は急に憤慨して、手を胸の前で前後に振った。早くこの部屋から出ていけということだろう。
「失礼いたしました。迅速に対応いたします」
私は深々と頭を下げた後、趣味の悪い赤い絨毯の上を数十歩あるいた後、大きな扉の前でもう一度、失礼いたしますと大臣に告げて、そっと大臣室を後にした。
私は通路に出てもう一度大きなため息を吐いた。なぜ、あんなやつの下で働かなければならないのか。今の政府は狂っている。景気の悪化を真摯に受け止めようとせずに、若者の食いつきの良さそうな新省をつくることで批判の矛先を変えさせようとしている。
SNSの人気者である牛瓦正彦を評価経済省のトップに据えたのも人気取りの一環であろう。噂ではSNSのユーザーネームである「うっしー」のまま大臣に置きたかったらしい。その意見はまだ気が狂っていない議員によって何とか否決されたらしいが。
メディアでは『うっしーこと牛瓦正彦氏が評価経済省の大臣に就任されました』などと大々的に取り上げられていた。かつてバラエティー番組で引っ張りだこだった男だ。国民の食いつきは思いのほか良かった。
それでも私にはわかっていた。上辺だけの人気取りはすぐに綻びを生じることになる。政府はおそらく経済低下の批判の矛先を将来的にはこの評価経済省に向けたいのである。
私は、派手な装飾が施されている大きな扉の前でため息をもう一度大きく吐き、天井を見上げた。
――評価経済省発足から2年後。2032年に『評価経済決済法』がいよいよ制定されることになる。牛瓦正彦の名の下で。
この政策は、今までの終身雇用制度や日本円の概念を覆す異質な政策であった。
当然のごとく、賛否両論を呼んだ。内容は以下の通りである。
第一条. 日本円を使用せずとも電子通貨決済で豊かな暮らしができるよう、各々個人にトークンを支給する
第二条. 日本円ではなく、各個人名のトークンで、すべての物品やサービスを享受できるものとする
第三条. 支給した各個人名のトークンの価値は、政府規定の基登録した、3つの分野選択によるものとする。また、評価に関する基準は世間に与える影響力などさまざまな評価項目から決定される
以上が『評価経済決済法』の大原則と呼ばれる3か条である。ただこの法案は約数百にも及ぶルールが事細かに制定されている。そのほとんどが、次官である国平明が政策立案したものであることは言うまでもない。ただその事には一切触れずに、日本政府の威信を賭けた政策であるということだけが、各メディアによって一斉に報道された。
この政府の新法案の発表。あまりにもこれまでのルールとはベクトルの違う政策に、国民に波紋がすぐさま広がった。
「日本円はどうなるのか?」
「評価の基準を明確にしろ!」
国会議事堂の前では大衆の怒号が、連日響いていた。怒声の矛先は当然、評価経済省にある。誰からの対応がないと分かると、民衆の怒号は更に増していった。
そんな大人たちが必死に怒号を上げる一方で、若者たちはこの政策を案外すんなりと受け入れていた。
――新時代の幕開けだと。
その頃、金屏風の前に置かれた身長ほどある観葉植物に優雅に水をやっていた牛瓦は、焦ったようなノックに少しイライラしながら対応した。
「誰だ、こんなめでたい日に。何かを急かすようなノックをしよって」
数年も大臣という職に就いていると、風体だけは大臣のような振る舞いが出来るようになるのか。ドア越しから私は人体の不思議を感じていた。
「国平です。牛瓦大臣、ゆっくりされているところ、急に申し訳ございません。緊急にご報告したいことが……」
――それから更に時は進み、2040年。
「日本円なんかふりーでしょ、今は評価経済の時代でしょ」
今日で18歳の誕生日を迎えた尾上涼太は、評価経済決済法に賛同する若者たち、いわゆる新時代の立派な一員となっていた。
数年前には中国や韓国も日本に見倣って、『評価経済決済法』を取り入れた。そしてどの国も景気がV字回復している。今年はとうとうアメリカがこの政策に倣って、新たな政策を導入するらしい。
そういう流れからもこの法律に反対する奴は馬鹿なんじゃないか、俺は心からそう思う。
――本編へ