久しぶりにALISに投稿してみます。
春からマルクスの「賃労働と資本/賃金・価格・利潤」(光文社古典新訳文庫)を再読していました。
私はマルクス信奉者ではありませんが、ふと古本屋で買って読み始めたものです。
この本では「資本論」のベースとなった考えが書かれており、賃金や資本に対するマルクスの考え方を知ることが出来ます。
ふとニュースを見たら、マルクスの「資本論」が読まれているそうですね。
おそらくは資本主義の構造自体に疑念が持たれているからだと思います。
林田さんの記事を拝見したところ、
SDGsやテクノロジーによる方が社会問題の解決に寄与できる、とありました。
しかし、今の若い人たちは社会問題の解決を望んで「資本論」を読んでいるのでしょうか?
確かにIoTやAIの技術は、我々の生活を快適にするでしょう。
でも、それが発達したからといって、我々の給料が果たして増えるのかと言えば、そうでは無いでしょう。
むしろGAFAのような企業がさらに富を拡大させる可能性が高く、またテクノロジーの発達で職を失う人も出てくるでしょう。
そうなれば、テクノロジーの発達は両刃の剣でしかありません。
おそらくテクノロジーやSDGsよりも、もっと単純な話で
というところにあるのではないかと思います。
少し前までは戦後最長の景気拡大と言われていました。オリンピックでの経済効果も喧伝されていました。
それでも賃金は上がらない。
景気拡大やら経済効果で発生した利益が得られるどころか、普通に働いて得た利益すら反映しない。その利益は「誰かが持っていってしまっているのではないか?」「だから自分たちのところへ回ってこないのではないか?」
そんな疑問が根底にあり、それを解決するために「資本論」が読まれているのではないかと思います。
さて、「賃労働と資本/賃金・価格・利潤」ですが、マルクスの慧眼なのは、我々は資本家に「労働の価値」を売っているのではなくて、「労働力」を売っているというところでした。
どれだけ会社に利益をもたらそうとも、お客様に丁寧に接しようとも、その価値が評価されるわけではなく、資本家からすれば「あなたは月給30万の社員」「あなたは時給1000円のバイト」という取引される商品でしかないわけです。
あなたが1000億円の価値を生み出す人間だとしても、資本家から「うーん、あなたは月給30万!w」と言ってしまえばそれで終わりです。
「ああ、だからいくら頑張っても給料が増えるわけじゃないのね」と得心しました。資本主義の構造的な問題なので自分の努力などでは変わるはずもありません。
もちろん人事評価や昇給で多少は上がるでしょう。でもこれもクセ者で、多少増やすことで本質問題に目を向けないようにされているのかもしれません。
まず利益なるものは株主に配分されるわけですから。
頑張って働いて貢献した利益は給料に反映されず、その得たはずの利益はさらなる資本として再拡大してゆく。
実は頑張れば頑張るほど、資本家の取り分が拡大していくだけではないか?
資本の再拡大のために、我々は働いているのではないだろうか?
私としてはそんな疑問が浮かんでいたのですが、「資本論」を読む人が増えてきたということは他の人もそんな思いをしている人がいるのかもしれません。
共産主義は失敗しました。でも残った資本主義もまた我々を幸福にしないのではないか?
そこでもう一度マルクスの「資本論」を見てみよう。
そういう流れがあるのではないかと思います。
最後に「賃労働と資本/賃金・価格・利潤」を読んで印象に残った部分を抜粋します。
現代においても十分に、というか現代の様相を言い当てたかのような内容でした。
マルクスが生きていたら「ほら、やっぱり俺の見立て通りだ」と言うかもしれません。
時間は人間の発達の場である。いかなる自由な時間も持たない者、睡眠や食事などによる生理的な中断を除いて、その全生涯が資本家のための労働に吸い取られている人間は、役畜にも劣る。
彼は単に他人の富を生産するための機械にすぎないのであり、体は壊され、心は荒れ果てる。だが、近代産業の全歴史が示しているように、資本は、阻止されないかぎり、しゃにむに休むことなく労働者階級全体をこのような最大限の荒廃状態に投げ込むことだろう。
社会は、途方もなく豊かな少数の者と多数の何も持たない労働者階級とに分裂し、そのせいで、この社会は、それ自身の過剰さによって窒息しながら、その一 方で成員の大多数が極度の窮乏からほとんどないしまったく保護されないでいる。 このような状態は日々ますます不条理なものとなり、そして不必要なものになっていく。 それは取り除かれなければならないし、取り除くことができる。 新しい社会秩序は可能だ。