知識とは何か?
知識とは正当化された真なる信念(justified true belief = JTB)である。
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このプラトンが編み出した定式、またそれに対する懐疑から始まる様々な論題(所謂ゲティア問題)を、何故だろう?今、想い出している。
想い出すとは言っても、なんら具体性を帯びて記憶が現れるわけではないので、ただ酒然と朧げに想い出されてゆく。
取り敢えず、知識が知識たるには、
ⅰ)それが信じられている
ⅱ)それが正当化されている
ⅲ)それが信じられる十分な根拠がある
という3つのプラトンが与えた条件に、ゲティア以降何人かの論理学者が条件を加えていくことで、この定式をより普遍的に妥当しうるようにしていこう。みたいな話だった気がする。
これを習った当時、僕が感じたことは、ゲティア以降の批判は科学主義のパラダイムにあって向けられている批判なのではないか?ということである。
つまり、客観的、機能的に正当化されるプロセスを踏んで確かめられた知識ばかりが正当に正当化されていると看做されているのではないか?
例えば、「私が幽霊(UFOでも要請でも何でもいい)を見た」という状況を想定してもらいたい。
この時、「私が幽霊を見た」というのは”貴方(ここでいう私)にとっては”紛れもない事実である。
だが、もし貴方が「私、幽霊見たんだ」と友人たちに話せば、恐らく彼らは誰も信じないだろう。
とはいえ、「私が幽霊を見た」ということは、その主観からしてみれば、
ⅰ)私は幽霊を見たことを信じている
ⅱ)幽霊を見たことは実際に見たという根拠によって正当化されている
ⅲ)実際に見たという根拠がある
ということで、十分に正しいと言い得るのである。
だが、それは主観的真実にしか過ぎない。客観的には、それは偽である。
この時、今我々が生きる科学主義・実証主義のパラダイムでは「客観的なことが正しい」と人々が信じている世界なので、貴方にとっての真実は欺瞞に過ぎないという人々の評価を喰らう。
しかし、この手の「人には信じてもらえないけれど、確かに体験した」という経験は、案外大多数の人が持っているのではないか?
(大多数が持っているならば、それは客観的論拠にもなり得る。)
それは、心霊現象かもしれないし、宗教的奇跡、信じられないような偶然的現象が次々に起こった、或いは、占いがドンピシャリで当たったというようなことかもしれない。
僕は、正夢をよく見る。これまで50回くらいは体験したことがある。人に語ったところ、「どうせ偶然だろ。」というように回避されるのが関の山だが、
僕の見た正夢とその後起きた現実とでは、本当に、人が話すことが一言一句違わないし、僕に見えているもの、その視野の角度も寸分も変わらなければ、一回も訪れたことのない場所のこともある。
「嘘だぁー」と思われるかもしれないが、
”私にとっては”それは真実なのである。
つまり、これが真に真実であるか否かは、
僕が、主観的真実を信じるか、客観的真実を信じるか、ひとえにそれ次第なのである。
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貴方はこの手の不可思議な経験をしたことはないだろうか?
もしあるとするならば、貴方はそれを真実だと信じられるだろうか?
結局、それも貴方が「主観を信じるか、客観を信じるか」それ次第なのである。
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そして、この「信じる」という心的働きは極めて主観的働きである。
したがって、「主観を信じるべきか、客観を信じるべきか」という問題は主観に委任されるべきものである。
この2項に質的差異はない。
「自分を信じるべきか、人を信じるべきか」に換言できるこの問題は、自分自身で答えを決めるべき問題だと思いませんか?
(科学は(=時代は)「人を信じるべき」だと言っています。)
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もし、この仮説が正しいとするならば、
科学も宗教も大して変わらないのではないか?
と思い至ったのであった。