庭の朝顔に虻が停まった。
螺子れ上がった蔦に特異な凹凸を為すそいつに、
読書に飽き始めていた健は目を惹かれた。
「もう、水を遣ってもいい頃合だ。」と思って、
アルミのジョウロに水を汲む。
窓を開くと清廉な冷たい秋風が部屋に吹き込んだ。
時分はすでに夕暮れ時である。
虻は依然として蔦に佇んでいる。
彼はジョウロの水を朝顔にかけた。
あの特異な黒点を目掛けてかけた。
寝耳に水の虻は必死に仔細な羽をバタつかせて飛んで行った。
健はその点を目で追った。
次第にそいつは曖昧ヘ消えた。
次に空間が視界に収まる時には階下の公園があった。
黄昏の陽に童子童女が遊んでいる。
彼は曖昧にそれを眺めている。
曖昧な光景は次第に抽象度を増して、
健を公園ヘ連れ出した。
幼い健は童子達に交ってボールを蹴っている。
茫洋に浮かぶ過去の健は、
この上なく活力に満ち溢れ、
楽しさそのものを表現していた。
暫くして、虻がまた朝顔に帰ってきた。
虻と同時に健も庭に帰った。
「この朝顔を大切に育てよう。」と彼は思った。
家の内は、閉め忘れていた窓の隙より流れ込んだ秋風の為にすっかり冷え込んでいる。
そこで、仮象に彩られる赤橙の温もりだけが、
親しく感じられるのであった。
〜
数日後、朝顔は枯れた。
恐らく、水を遣り過ぎた所為だ。
嘗て眺めたことのない感情に彼は対峙した。
すると、一羽の虻がやってきて、枯れた朝顔に停まった。