私はつくづく惟うことがある。
それは即ち、今この時代に基礎として根を為している思想は、"潜在的ニヒリズム"なのではないか、ということである。
“潜在的ニヒリズム”とは、世界に存在する人それぞれが自己自身に対してその存在をあまり問うことをせず、つまり、自分の存在価値や生きる意味などの問は殆ど意識に顕在することはないが、一度それを問うようなことがあれば、存在価値や生の意味など全くないように思われてくるような、したがって、誰もがニヒリズムを潜在的に抱えている形態のことである。
それは裏を返せば、この世の中が平和であることの証明に他ならない。
餓えることもなければ、犯罪を喰らうこともまずない、死病に罹る心配もまず心配なければ、戦死するわけでもない世の中、死が身の周りにない世の中では、いちいち生に真摯に向き合わずとも生きていけるのである。
街ゆく人に「貴方はなんの為に生きているか」と問うてみればよい。
彼は直ちに口を噤むであろう。
これぞ“潜在的ニヒリズム”の蔓延る世の中なのである。
本来、私の生きる意味というのは、私の生を依存させている共同体の中で決まる。
例えば、日本の弥生時代のようなムラ社会を想定すると、私が畑を耕さなければ餓死する他者があり、また、他者が家を建て見張りを立てなければ直ちに襲撃、私の死の危険性がある。
つまり、私の生が他の誰かによって支えられ、また私が誰かの生を支えているという場合に、私の生きる意味が見出されるのである。
成程、私の生きる意味は他者に依存するものである。
では、現代はどうか?
現代は紛れもなく個人主義の時代だ。
何につけても個人が尊重される、或いは尊重されるべきと考えられる時代だ。
こういう時代であるから、私は私の為に生きることが規範とされる。
私は私に依存して私の生きる意味を発見しなければならないのである。
その証拠に、誰も「君は〜〜の為に生きよ」等と指示されたことなどないでしょう。
だが、自分自身で自分の生きる意味を探すというのは、あまりにも困難なことだ。
当然であるが、人は立ち向かう必要のない困難を避ける。
特に生きる意味を考えなくても生きていけるのだから、そんなものは考えない。
与えられることもなければ、進んで探すこともない。
しかし、一度探すことに迫られれば、すぐに見失ってしまう。
このように潜在的に人々の内にニヒリズムは潜んでいるのである。
ここで、どうせ生きることに意味なんてないのならば、世によくいう「人生楽しんだもん勝ち」が発想される。
つまり、人は自分の生を謳歌することを求めるのである。
そして、人々の「自分の人生を楽しみたい」という欲求に応えるのが、エンターテインメントである。
エンタメは人々を楽しませることにその本分があり、飽きやすい人々の為に常に新たな「面白い」が創造される。
「面白い」は常に産み出され、また蓄積し、その幾つかは忘却され、また再生される。この繰り返しによって、世の中はどんどん「面白く」なる。
このように、ニヒリズムが面白い世の中をつくっていくのである。