2019年のGW10連休は、神仏業界に於いてある意味良くも悪くも「御朱印」の話題が世間に噴出することとなりました。
一部の素行の悪い御朱印収集者が「悪名高く」なってしまい、私も20年神社巡りや御朱印巡りをしてきましたが、少し肩が狭くなってしまったのは本当に残念です。
事実、このGWには群馬県を中心に参拝させていただきましたが、ほとんどの神社で「御朱印初穂料を500円に」とか「御朱印はいずれも書き置き(御朱印紙)の下付のみ」といった対応になっておりました。
それでも気を取り直して引き続き参拝したいと思います。
神社には「日本三大下り宮」というのがあります。
「下り宮」というのは、階段の「下」に社殿がある神社のこと。
普通、神社は多くの場合が階段を上って拝殿・本殿にたどり着くものですが、下り宮では参拝のために一旦下って、終わったら上るという逆プロセスになります。
「日本三大下り宮」は
宮崎県の鵜戸神宮
熊本県の草部吉見神社
そして
群馬県の一之宮貫前神社
の3つになります。
しかも、「一之宮貫前神社」の場合は車で参拝しない場合は一旦表参道の正面から階段を上り、さらに大鳥居をくぐってから階段を下って本殿に至ることになります。つまり一回山を登って又下ると。
<縁起>
御祭神
【経津主神】
物部氏の氏神で天照大御神の命を受け武甕槌神と共に出雲国の大国主神より天孫のため国土を奉らしめた神で古来より武の神、建国の祖神として信仰されています。
【姫大神】
姫大神の御名は不詳ですが、おそらく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の神で養蚕機織りの守護神と考えられています。
一之宮貫前神社の御創建は、社殿によると安閑天皇元年(西暦531年)の3月15日と言われています。
この時、物部姓磯部氏が氏神の経津主神を蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめだに)に奉斎したのが始まりで、醍醐天皇の頃に『延喜式』には名神大社に列せられ、上野国の一之宮として朝野を問わず崇敬をあつめてきました。
現在の社殿は徳川家光公の命によって寛永十二年(西暦1635年)に造営され、特に本殿・拝殿・楼門は国の重要文化財に指定されている、總漆塗り極彩色の荘厳華麗なものとなっています。
また、全国的にも珍しい「のぼって、くだる」参道を有し、2階建ての本殿や雷神小窓と云った不思議な建築様式と相まって特徴的な神社となっています。『一之宮貫前神社御由緒』(参拝のしおり)より
御由緒書に記載のあるとおり、本社の始まりは物部姓磯部氏がこの地で氏神を祀った事に始まっていますが、現在の「一之宮貫前神社」という呼称は第二次世界大戦終了後に旧社格(近代社格)制度が廃止となった際に新たにつけられたものらしく、「国史見在社」のベースに出てくる「六国史」の記述によれば「抜鉾(ぬきほこ)神社」と「貫前(ぬきさき)神社」の2つの名前ででてくるとのことであった。
面白いことに詳細は不明で、「貫鉾と貫前は別の神社であったものを1つにした」説と「貫鉾も貫前も元々1つで名前が違うだけ」説の2つが存在する。
貫鉾郷と貫前郷という2つの地名が別々に存在していたという文書もあり、それぞれ別々に神を祀っていたように見えるものの、『延喜式神名帳』に記載されている名前はあくまで「貫前神社」となっているため、前述の2説のいずれにも根拠があるように見える。
また、伊勢の神宮のように式年遷宮が十二年に一度行われる。
御朱印を頂戴する際に「一之宮貫前神社御由緒」という参拝のしおりを一緒に下付されるが、その裏表紙に『上毛かるた』の1枚の「ゆ」の札として「ゆかりは古し 貫前神社」とされている。
上毛地方の一之宮として確かな存在感を表してきたのだと思う。
最近になって、これまでほとんど参拝できていない北関東地方の神社を巡り始めることが出来た。
そこで思ったのであるが、北関東地方には特に古代からかなり豊かな文化が広がっていて、恐らく現在の関東地方に該当する地域の「重心」は北関東地方にあったのだろうなあ、と感じるようになった。
2019年にはいって茨城県や千葉県北部、埼玉県北部、群馬県などを集中的に参拝しているが、特に今回参拝した群馬県地方には多くの前方後円墳が残されている。
例えば、本社のある富岡市一ノ宮には富岡市指定史跡「堂山稲荷古墳」が存在する。
ご存じの通り、前方後円墳というのはヤマトの文化の一つであり、『続日本紀』等の史料によれば上野国甘楽郡地方(現在の群馬県下仁田町、南牧村、甘楽町)あたりの豪族が物部の姓を与えられたとされている。
ヤマトの東国支配は着実に進捗し、その支配政策が上手くいっていた地域が北関東であり、西国と強く結びついて大きな発展を遂げていたように思える。
物部氏の祖神、と記載される「経津主神」であるが、中臣氏(藤原氏)の祭神である「武甕槌神」とセットで良く登場する。
物部氏の武器庫であったとされる奈良県の「石上神宮」では「布都御魂(フツノミヤマ)」を祀っている。
つまり、経津主神は物部氏の神様なのだが、その後の展開の中で藤原氏によって骨抜きにされて、両神様は一体のようになり、最終的にあたかも藤原氏のものだったかのようになっていく。
千葉の香取神宮は神武天皇十八年の創建とされ、少なくとも奈良時代には朝廷から大きく崇敬されていたようだが、本社も西暦531年頃からは祀られていたようであるので、物部氏や中臣氏のそれぞれに大和朝廷の重臣として東国支配の一翼を担っていた時代だったのであろう。
2014年に世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」として登録された「富岡製糸場」からもほど近く、観光を兼ねてGゴールデンウィークと云うこともあって多くの方々が参拝されていました。
会談はかなり急ですが、大きな手すりが整備されていて、地形の割に参拝しやすい神社でした。
群馬県富岡市一ノ宮1535
式内社・名神大社
上野国一ノ宮
旧社格:国幣中社
神社本庁別表神社
経津主神(フツヌシノカミ)
姫(比売)大神(ヒメオオカミ)
<公共交通機関>
(鉄道)
上信電鉄「上州一之宮駅」下車 徒歩15分
<車>
上信越自動車道 富岡インターから約20分又は下仁田インターより約20分
(駐車場)
本殿上の大鳥居脇の両側にそれぞれ数台程度駐車が可能
※年末年始等は本殿上まで車の交通規制が実施されるようです。別途一ノ宮小学校及び一ノ宮グランドに臨時駐車場が設定されるようですので、詳細は富岡市観光情報ページ(http://www.tomioka-silk.jp)等でご確認ください。
社務所にて。
初穂料500円(2019年、令和改元直後のゴールデンウィークであったため、特別対応の可能性があります。)