牛乳ビンの蓋を開けたことはあるかい?
円盤状の蓋を破ること無くありのまま引き抜いた時の快感は特別飲みたくもない牛乳より遥かに価値があった。
牛乳の一気飲みなんかは賭けにももってこいだ。
中庭での昼食を許された日にはガラになく参加したりした。
教室でやれば実情軽犯罪、場合によれば人権も激減する「吹き出し」も外ならバレずにやれる。
開放感溢れる日差しの下側溝に並んだ有志は気の抜けたスタートコールで一斉に脱落した。
さて、話を進めよう。
得意なことといえば蓋をきれいに開けることくらいだった筆者は先日のバトエン禁止にむくれていた。いつかは規制されると思っていたが、結局ろくに勝てぬまま闘いの場を奪われたことが屈辱だった。置いて行かれた海馬の気分である。(当時は完結していなかった)
小学生というものは世界一大人の顔色を伺う生き物だ。生きる事はセーフラインを見極めることだ。
想定された子供の範疇で振る舞えば大抵のことは通るという確信があった。
こいつでオセロを作ってやろうと考えたのだ。
手始めに用意したのはさえない男だった。
そして目的のためお互いの班に頼んで牛乳瓶の蓋を地道に集めた。
無傷の蓋は一枚で充分コマになる。
洗い、干して、教室からポスカをちょろまかして黒く塗った。
粗悪なものはセロテープで貼り付けて一枚とした。
長らくかけて完成したオセロは
『外部からの持ち込みでなく』
『自発的に創造された』
『知育玩具』
そういう名目で見逃された。口出しも没収も一切行われなかった数少ないゲームだ。
完成を見守った有志からもしばらく蓋がもらえたので改良も簡単だった。
まかり通した達成感はオセロのゲーム性より遥かに高いものだった。
看守はルール違反の常習犯であるボスに注視していた。
彼はメタルギアが好きだったのでここでは仮にビックボスと呼ぶことにしよう。
もしオセロ作成をビックボスに持ち掛けていたら、即刻退場だったかもしれない。
奴は悪のカリスマだった。どんなしょっぱい罪もビックボスが絡むだけでワンランク上がるほどだった。
麻雀の役のようなものだ。今回のように気長にやるなら役者は地味な方が良かったのだ。
人を巻き込んだささやかな脱走劇の余韻に浸っていると急に新しい蓋が来なくなった。
気がついた時にはもう教室に変化が現れていた。一部生徒が牛乳瓶の蓋を蓄え始めていたのだ。かといってオセロやその他のものを作る様子もない。
今思うと自覚が無かっただけで蓋を集めだした時から変化は始まっていたのだろう。意識改革が起きていたのだ。
牛乳瓶の蓋は「ゴミ」→「何かに使えるもの」→「価値を帯びたアイテム」
と変革を得てその価値はどんどん膨らんでいった。
元々目的の為に収集されたアイテム、牛乳瓶の蓋は
貨幣価値を得てしまった。