沖縄県那覇市内にあった県内有数の観光地「首里城」の中にも戦争に関連した遺構が残されています。
琉球王国時代の輝かしい歴史は紹介される機会も多いですが、この首里城の地下に沖縄を守備した旧日本陸軍の「第32軍」の司令部壕が張り巡らされたという歴史もあります。
現在、首里城の無料エリア内に「留魂壕」が公開されています。
この場所は無料で見られるエリアですが、観光客の目的地である正殿跡へ行く道から外れるのでほぼ人がいません。
「留魂壕」は元々は琉球王国時代にお城に仕えていた女官の休憩場所であった説が強く、18世紀初頭に描かれた古絵図にもその存在が描かれていました。発掘調査でも古い琉球時代の遺物も発見されています。
その後、戦争期になると横穴が防空壕に使用されるようになります。
1944年末から1945年初頭にかけ、「鉄血勤皇隊」として動員された沖縄師範学校の生徒らによって横穴の拡張作業がされ、「留魂壕」が構築されました。
名前の由来は幕末の長州藩出身、松下村塾にて教育を行っていた思想家「吉田松陰」による書物、安政の大獄により捕らえられた獄中の中で執筆した「留魂録」から引用しているようです。
師範鉄血勤皇隊の10代半ばの少年らによって、長さ23.4m×幅4.5m×高さ1.8mの防空壕が約二カ月で完成しました。
内部には首里城周辺の破壊された家屋から廃材を持ち寄り、壕内に2段寝台を作ったり、畳を持ち寄って使用していました。
入口付近に炊事場、少し離れた場所をトイレとしました。
留魂壕は主に鉄血勤皇隊の教師や生徒が使用していましたが、現:琉球新報となっている「沖縄新報」が1区画を使用して陣中新聞を作成するのにも利用されています。
そのため、壕内部で発見された遺品の中には新聞を作成するのに使用された「活字」も発見されています。
活字の文字は「戦」などの戦争を象徴したような文字もみられました。