こすもすさんの京都案内の記事は本当に参考になる。
行ってみたいところがつきない。
去年の10月に母と京都に行った3日目は、こすもすトラベル見て行ってみたかった、
大原。
まだ記事書いていないうちに、こすもすさんが、冬の大原の記事を上げていたので、
ああ!!・・・(記事投稿したい)と思った。
鈴虫寺に行った日、その後バスで降りたのは、京都三条商店街の近くで。
ぶらぶら散歩。
お洒落な感じの若い人好みの飲食店があるな、と思いつつ歩く。
幅の細めのアーケードの中、あちこち見ながら歩いていたが、店の間、割とすかすかしていて。時間が遅かったのかなー。
しかし自転車結構走ってた。
種類豊富なモンブランや、プリンなど、買うもの悩むケーキ屋さんで、モンブラン買って帰った。コスパにも感動。
翌朝、バスに乗って大原へ向かった。
結構古いバス?座れてよかった。
どうやって行くか、どのくらい離れているかは、こすもすさんの記事を見てください!
大原到着。
あ~、なんだか全然違うところに来た感!!
ちょっと離れたら、凄い自然感じられるのがほんといい。
ところで、この記事この先、スマホ(pixel 4a5G)とデジカメの写真、どっちで撮ったか書いて載せます。
デジカメはsony α7 II。このモデルの後から、充電も結構持つようになったそうで、値段もどんどん高くなってきた感じ。レンズはsonyのレンズで単焦点の50mm(FE 50mm F1.8 SEL50F18F)です。旅行の時、短いレンズは楽。そして自分はズームレンズでうまく撮れたためしがない。ズームレンズも難しい・・・。
お出迎えしてくれてるのかなー
川が流れていて気持ちいい。
春じゃないけれど、春の小川的気分。
青紅葉がたっぷり。
三千院門跡の方の道へ進み
土産物屋さんが並んでいる前を通って(人いなくていい~)
三千院の門の前を過ぎる。
1枚目デジカメ、2枚目は帰りに撮ったスマホ写真。
小さな橋を渡る。
1枚目はデジカメ。2枚目は帰り方向、スマホで撮った。
進行方向右側に何かあったので近づいてみた。
お墓でした。
進行方向、目の前にお寺の建物がどっしりと。
勝林院、とある。
1枚目はデジカメ、2枚目は帰りに撮ったスマホ写真。
先に見ようと思っていた方へまず向かう。
宝泉院に到着。
このお地蔵さん、こすもすさんの記事ではすっかり雪かぶってます。
建物の方へ進む。
左側を見ると鯉がいる。
手入れ大変だろうなあ。
中に入ると
上の方に籠が!
右側の部屋では個展が開かれていた。それを見に来ているらしき人が3人ほどいた。
入ってすぐ、左手にある庭。江戸中期に作られた、鶴亀庭園。
10月は空いているのはいいけれど、庭の色にはあまりめりはりがない季節。
奥に進むと誰もいなかった。
広い。
五葉の松(ごようのまつ)、迫力ある!樹齢700年だそう。
こんな広がった枝持っていて、よく倒れないなあ・・・
お茶とお菓子をいただいた。めちゃやわらかい、もったりとした求肥のような餅にあんこが入っている。
若狭屋末則というお菓子屋さんの名前が包みに書いてあった。
自分と母のほかに、人はいなくて、額縁庭園の囲まれた中で、お抹茶・・・
めっちゃ贅沢!
しかし、緊張感がある・・・
さて、なんで今回、スマホ、とかデジカメ、とか書こうって言ったかと言いますと、
この盤垣園(ばんかんえん。お庭の名前です。)の写真が、スマホとデジカメでずいぶん違うのが分かりやすかったから。
どっちも、特に何も自分で設定してなくてカメラ任せ。
構図が完全に同じじゃないから、どこに露光合わせるかとかで違うじゃん!という意見もあるかもしれませんが、こちらとしては、特に何も考えず、写しただけなのに、こんなに違う・・・と感じたのでした。
↑これはなんだかピント甘いけれど、色は目の前にある感じに近いように思う。
スマホだと、緑が白っぽくなったり、かすんだり、緑のグラデーションがHDRみたいになったりする。イラストのようなぺたっとした感じに。
宝泉院のあと、先ほど通り過ぎた勝林院に行った。
1013年に修行の道場として創建されたそうだが、本堂は何度も焼けては再建していて、今のものは1778年に再建されたもの。
幅七間・奥行六間の総欅造り。けやきって、読み仮名確認してしまった。
立派な木造、気持ちよい。
木彫り、凝ってる。上にいるの浦島太郎風?
花咲爺さん風・・・
本尊 証拠の阿弥陀
大原問答の時に、法然が説いているときに、光を放ったらしい。
ところで大原のこのあたりのお寺から、古典邦楽は始まったと言われているそう。そのわけは、お経を歌みたいに唱えるのが、天台宗から広まり、古典邦楽に影響与えたからみたい。サイトに書いてあった。↓
天台声明
声明とは、法要の中で経典を歌のように唱える宗教音楽で、インドから中国を経て日本に伝えられました。
天台宗に伝わる声明の系譜は、平安時代に円仁が中国から比叡山へと声明を伝えたことから始まります。そして円仁の系譜に連なる寂源が勝林院を、ついで良忍が来迎院を建立すると、大原寺は声明を研究伝承する一大拠点として発展していきます。
大原寺の住職たちは宗派を超えて声明の伝授をおこなったため、浄土宗や浄土真宗などの声明は、大原の天台声明の流れをくんだものです。また声明は、のちの時代に謡曲や浄瑠璃などの古典邦楽に対して大きな影響を与えたことが知られています。つまり魚山大原寺は、古典邦楽の聖地と言い換えることもできるでしょう。
長々と読んでいただきありがとうございます!
大原の話はまだ続きます。