宇佐宮については縁起として17種類が伝わっており、そのうち最も古くしかも完全な形で保管されているのが国の重要文化財に指定されている石清水八幡宮に伝わった「承和縁起」である。その縁起の奥書は承和11年(844)6月17日となっており豊前国司の名前が並べて書いてあるが、平野博之氏は(「承和11年の宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起について」九州史研究)寛平元年(889)から寛弘6年(1009)の間の後者に近い時期に辛嶋氏によって編まれたと推定している。逵日出典氏はそこに納められる縁起伝承は、大神氏系と辛嶋氏系の二つに分けられるといい、在来氏族とみられる宇佐氏の去った6世紀後半と考えられる時期、宇佐の地に入ってくるのが大神氏であり、駅館川を境に東に大神氏西に辛嶋氏という配置の中で、その縁起伝承が定まっていったようだと論ずる。ここで宇佐神宮の歴史を考えるのに欠くことができない、大神・宇佐・辛嶋の三氏族についてまとめると、まず宇佐氏は、神武東征の途中、豊前宇佐で饗応した宇佐津彦・宇佐津姫を祖とすると伝承されており、4-6世紀の宇佐周辺古墳群の被埋葬者と考えられるが、伝承時代において八幡神とのかかわりは薄く、「宇佐氏系図」ではその祖が天三降命(アマミツクダリノミコト)としている。辛嶋氏は、「宇佐郡辛国宇豆高島」に降臨した八幡神を祀った氏族で、秦氏系の渡来氏族とされる。大神氏(おおがし)は、その出自は大和の大神(おおみわ)氏に求められ、欽明天皇の時代に現れた八幡神を始めて祀った人物と伝承される大神比義を祖とする。これらについて検討してみると、まず宇佐氏については、伝承時代に八幡神との関係が薄いことからも、古代氏族と宮司家との直接の関係性はそれほど強くはないと思われ、宇佐神宮創建時に活躍した法蓮という僧がそこを結び付けたと考えるべきであろう。辛嶋氏については、まず辛というのを安易に唐や韓と結びつけるのは危険であるといえる。それらの大陸系の国名から「から」という読みは出てこず、それは基本的に倭語的な発音であるといえるからだ。そして、辛嶋氏がのちに世襲することになる禰宜や祝というのも、大陸系ではなく、極めて倭の伝統に基づいたものであり、「やはた」を「はちまん」と言い換える神宮で、大陸系の氏族が自分たちのつかさどる神職の名前を倭語のまま残すというのは考えにくい。特に、祝というのは諏訪において伝統的に使われる神職の名であり、そのかかわりを考える方が自然であろう。大神氏については、大和の大神氏とのかかわりが言われているが、その東国起源こそがおそらく辛嶋氏の伝承であり、大神氏というのは、先に出た法蓮とともに宇佐神宮の創設に強くかかわった勢力であろう。その関係性を伝承の解析を通じて明らかにすることが、八幡神の実像に近づく第一歩だといえる。