天正十六年
正月六日、鯉二十本、鮒百五十枚。十三日連歌、康定の句。二月十七日、家康様御上洛廿八日ニ相定候、とあるが、廿八日には雨で延期している。上洛を雨で延期する、と言うのは何とも奇妙な感じがする。三月一日に上洛。随分立って十九日付で十四日に岡崎ヲ御上洛之由候とある。この日は小笠原越中守被越候、とあり、前年正月の関白様御異見と考え合わせて、家康から小笠原への権威の付け替えのようなことが行われている感じがする。月末には関白の消息について詳しく出ている。三河にいるというよりも京都にいるという感じを受ける。四月三日にも関白様より家康様へ被進物、の記事が、金森所持やら宗易所持と行った明細付きで出ており、そんなことも現場でしかわからなさそうな感じがする。あるいは小笠原が京都で同席し、その話を後から聞いて書いたのだろうか。廿一日にも禁裏への進物明細が出ている。これは関白秀吉の判がある御進物之次第の写しであろうが、そのようなものは、身近でそれを実際に書いたか、少なくとも何らかの相談に与らなければ日記には書けそうもない。しかも、家康の上洛で秀吉の禁裏への進物の次第を書くというのもわかりにくい。ここはもっと深く検討する余地があるのだろう。廿七日、家康様京都より御帰城候。五月廿五日発句家忠の連歌。後五月十日発句備州 清善の連歌。「植そへて 陰猶涼し 庭の松」とのことで、松平によってできた陰の居心地が随分良いことを詠っているようだ。廿九日、前夜から当日にかけて雨が降っているのにもかかわらず、雨乞之連歌宮中にて候、として、かけゆの発句で「夕たちや 瀧川なかす 神の庭」となっている。どうもやはり、基本的に京都にいて、天気だけ三河のものを誰かに調べさせて書き加えているのではないか、と言う疑いがある。六月廿四日発句家忠の連歌。
八月十日の下部書入として、相州氏直伯父北条美濃守関白様江出仕、今日岡崎へ着られ候、とある。後日に小田原攻めに絡む展開で書き込んだ可能性もあるのでは。廿五日連歌、竹備清善、又家忠、正佐の句が載っている。九月廿七日康定発句の連歌。十月五日吉田酒井左衛門尉隠居。廿二日発句家忠の連歌。十一月十八日鯉五十五本。この月は中嶋が多く出る。十二月二日鯉四十本。十五、十六日にも鯉が捕れている。廿二日殿様関白様より吉良へ御たか参候、とのこと。京都への献上ならともかく、関白から吉良へ鷹が下されると言う状況は想像しにくい。
天正十七年
正月四日板倉四郎右衛門尉振舞。板倉勝重が中嶋重次の妻と再婚していることを考えると、前年末に中嶋が出てきて鯉が豊漁だった事と関わるか。十三日康定発句の連歌。十八日鯉十本。ふな百まい。日付上部に會下東堂大洞被越候て参候、とある。これも後から書き加えられたか。大洞山泉龍院というのが新城管沼氏の菩提寺としてあり、その本山が遠州森の橘谷山大洞院という名であるということと、この大洞というのは何かつながるか。十九日には行間に鯉五本、ふな百まいを挟んで中嶋孫左衛門尉振舞の記事。後に板倉勝重と再婚した元中嶋重次の妻である粟生永勝の娘の連れ子重好が旗本となる。板倉の話と絡んでか、後につなげたか、いずれにしても板倉と関わっているとみて良いだろう。廿九日殿様中泉へ御鷹野に御座候、とのこと。ここでも御鷹野と言うのが會下のように地名なのか行動なのかよくわからない形で使われており、そして少し前からで始めた中泉という地名と結びつけることで、これまで三河の中にあるかのように使われていた御鷹野を遠州の方に移そうとしているようだ。結局江戸時代には中泉は遠州の天竜川を越えた先になり、そこに陣屋が置かれることで、『家忠日記』に書かれていたこれ以前の記事も全部遠州をかなり広く錯覚して読まざるを得なくなったという事がありそう。
二月五日興国寺や沼津城という地名が出てくるが、これまでの経緯からこれが現在ある場所だとは素直には信じがたい。地形的には、沼津というのが今の静岡市あたりだと考えた方が個人的には納得がいく。二月十日作手という名が初めて出てくる。現在三河に作手地区というところがあるが、それもこれがきっかけとなってついた名か。そこは地勢的には広い湿地が広がっていた盆地であり、額田がぬかるんだ田であると考えれば(それ自体水田を前提とした名で古くからのものとは思えないが)、その方が遙かにそれらしく、額田郡の中心だったと考えるべき理由がある。先ほど名の出てきた中嶋氏の母である粟生氏というのが鎌倉以来額田の秦梨城主であったとされるが、そんな話を作り出してそれを押しつけたとしたら、ここで大きな歴史抹殺が行われたことになる。十三日信州眞田むす子出仕候とある。他家の息子の出仕が書かれているのはおそらくここだけだろうと考えられ、しかも新参であるはずの眞田の息子の出仕を書き残すということの意味は十分に考える必要があろう。十一、十四、十五日など連歌が多く催されている。
五月二日連歌。十二日から十五日にかけて雨乞の連歌など。発句は玄佐となっている。月末にも宮で雨乞の願掛けと連歌。東三河地方には雨乞の面がいくつか残されている。また、蒲郡に三谷と書いて「みや」と読む地名がある。特に蒲郡は大きな川があるわけではないので、雨の果たす役割は大きかったかも知れない。一方でそれ以外の東三河は川やわき水を含め水は非常に豊富で、雨乞が祭事として残るという事はとても考えにくい。そして、雨乞というのは稲作と強いつながりがあるように感じられ、陸稲が明治前後まで残っていたと伝わる東三河地域で雨乞の面とされるものが本当に雨乞のためのものだったかを含めて疑問が残る。更に、『家忠日記』が雨乞を強調することが、一層その疑いを強めている。
六月十一日も玄佐発句の雨乞連歌。七月廿一日信州眞田の沼田城受け渡しの記事。前に出てきた時もそうだが、信州の字は本文中ではなく行間であり、後から付け加えた可能性もある。しかも信州と書き加えながらも、結局今では沼田は上州にあるわけで、これも場所不特定のまま記事だけを先行させた可能性が高そう。沼田はまさに先の額田にも通じるもので、流れとして今の作手を狙っている時期であると考えられ、そこから話を広げていった可能性があるのではないか。つまり、眞田という架空の名前と作手、沼田という新たな地名を使い分けて、その重要な場所をいかに奪い取るか、ということを企んでいたのでは。八月には富士山興津で木引の記事多数。廿五日にはふし山は雪とあり、八月に雪というのは、いくら富士山であっても考えにくい。この記事は全体として事実ではないという事を指し示しているのだろう。猶、奥三河の田峯には真夏に雪が降り役人を追い返した、と言う伝承が残っている。ここでやられたことの精一杯の意趣返しであった可能性があるのでは。九月も引き続き木引の記事多数。九日に野田信州松尾衆喧嘩候とあるが、松尾小笠原というのも、この記事を根拠に作られたものかも知れない。小笠原が信州で最初に入った所は最初深志と呼ばれていたものが、天正壬午の乱のあとに小笠原貞慶が入って松本と改名したとされ、小笠原と松はつながりがありそう。『家忠日記』の、特に連歌での松の多用を考えると、小笠原が『家忠日記』の著者と呼吸を合わせるように松を用いての東国進出の尖兵となっていた可能性はありそう。廿四日奥平九八郎、廿九日井侍従、十月四日管沼織部、七日西鄕弾正、八日設楽甚三郎と、明らかに三河周辺と関わる名前が出ており、やはり木引の舞台は三河から遠州北部の山間地であったと考えるべきではないか。結局木引は十一月七日まで三ヶ月に及んだ。これによって熊野につながる修験道の一大中心地であっただろうと考えられる奥三河の様子が大きく変えられたのだと想像される。木引が終わるとあミひかせで三度に亘って鯉や鮒を捕っている。そして廿九日に上野沼田城と、沼田城の場所が明記されることになる。翌十二月一日には鯉八十本、鮒三百の大漁。十三日に相州御陣のお触れ。十六、十九日にあミひかせ。