ここでまた八幡神をめぐる動きに目を移したい。天平18年(746)に八幡神が三位に叙される(建立縁起・東大寺要録)。なお、この年はその家持が越中守となって赴任する年でもあり、それがこの八幡神と大きくかかわるだろうことは、また後程触れる。ここから大仏造立をめぐって宇佐八幡の動きが活発になる。同19年(747)宇佐使を送り、大仏造立成就祈願する(託宣集)。同20年(748)黄金入手のため使者を唐に派遣することになるが、途中で宇佐八幡宮に寄り、黄金が出るとの託宣を受ける(託宣集)。同21年(749)2月22日陸奥国から黄金献上(続日本紀、扶桑略記、東大寺要録)される。「建立縁起」によると、900両献上うち120両は八幡神宮へ奉納されたという。これは異常な事件である。そもそも、これに当てはまると考えられる遣唐使は天平18年に計画され中止になった、石上乙麻呂を大使にしたものだと考えられるが、聖武天皇はその前年に難波宮に行幸したまま、そこで病に伏せっており、そして鈴印を難波宮に取り寄せている。これは、これまでの状況から仲麻呂、あるいはその意を受けた誰かが鈴印を勝手に押して命令を乱発しているという疑念を持っており、これ以上の暴走を防ぐための措置だと思われ、それを考えると遣唐使の中止というのは独断での計画は立てたが、印を押すことができずに実現できなかったものであるという可能性が高い。そしてそれが2年遅れで記事となり、そしてその翌年に都合よく黄金が出るということは、黄金が出ることを知ってそれを宇佐神宮および八幡と結びつけることによりその正統化を図った可能性が考えられる。これによって聖武天皇の我慢も限界に達したようで、同年4月14日改元を行い天平感宝とし、その元年(749)6月23日天皇は弥勒寺学分を献上する(益永文書、託宣集)。これは、宇佐神宮ではなく、弥勒寺の存在を認知することにより、事実上宇佐神宮の存在を消そうとする動きといえる。同7月2日には、聖武天皇が退位し、孝謙天皇が即位、そしてさらに改元がおこなわれた。改まって天平勝宝元年(749)7月22日に、豊前国八幡神戸の人より毎年一人を得度せしめ、弥勒寺に入らせる(類聚三代格、託宣集他)とあり、これも、国分寺ではなく弥勒寺という一般寺院の意味合いを強め、さらには八幡の主が弥勒寺であるということを公式に宣言したものといえる。この弥勒寺の優遇というのが、後の彦山流記での弥勒僧法蓮の伝承につながる可能性はある。つまり、法蓮が弥勒僧であることは続日本紀には述べられておらず、弥勒僧であることをのちに強調することで、弥勒寺と宇佐神宮とのつながりを印象付け、それが八幡が宇佐であるという印象にもつながるようにした、という後世の一連の印象のすり替えの可能性があるのだ。
令和元年11月19日 イタリック部分訂正注
聖武天皇の難波宮行幸は天平16年で第11次遣唐使の2年前、そして聖武天皇が病気だったという記述は続日本紀本文中には見つけられなかった。
なお、第11次遣唐使についても続日本紀には記述がなく、本当に計画されたものなのかはさらに調査する必要がある。