天正十三年
正月十三日連歌、備州清善発句。十六日初めて家康様の表記。小牧・長久手の合戦で、信雄を様付けにしたのと同期していると言うことで、元から家康というのは信雄、あるいは他の誰でもあり得たのだろうが、とにかく有力者のコピーのような形で描かれ、有力者の功を家康に付け替える、と言う形で、『家忠日記』の中で作られていった人格なのであろうと考えられる。廿七日にも連歌。ずっと宿の松が決まり文句だったが、ここでは宿の梅となっている。家康が敬称付きになったことで、松から梅に替えて、おそらく松平からその父違いの弟久松勝俊に路線を変えることを示したものではないか。二月廿七日連歌。
四月八日に彦右衛門尉の大書。局面が変わったことで、大久保彦左右衛門の『三河物語』につながるような話が動き出したか。少し戻って二月十三日には、おい山にて岡崎中根九左衛門尉をうちころし候由、云々とあり、中根氏が討たれたことが書かれており、中根氏は岡崎の旧家で正の通字を持っている。『家忠日記』の連歌で、家忠よりも多く名が出ていたのが正佐であり、本来なら、この正佐が筆者となるべきものだったのかも知れない。そして、大久保氏は忠の通字を持つが、大久保忠佐という人物がおり、二人の息子が夭折したために弟の忠教に後を継がせようとしたが果たせず、同じく額田と関わりのある青山忠利の息子とされる宗佑を養子にしようとしたが解消され、断絶に至っている。忠教は『三河物語』の作者であり、青山忠俊の妻は大久保忠佐の娘とされ、そこから生まれたのが宗佑だとされるが、忠の通字を持っていた青山家は忠俊の代で断絶となっている。家康の岡崎時代の話は、この中根氏と青山氏の話を大久保忠教が『家忠日記』以前の覚書か何かをもとにして、そこにつながるように脚色して作り上げた可能性がありそう。その話が動き出したのがこの時期だったのではないか。四月十四日夢想連歌、廿九日月次連歌は家忠の発句。
五月十二日十三日あたりに境目の大書。五月廿四日から廿七日あたりにかけて横書きで路連歌の大書。廿八日連歌発句ていしゆとなっているが、後ろに正佐ていしゆ二代とある。晦日にもまた連歌。六月廿一日連歌、永聞発句。七月廿八日正佐発句の連歌。八月九日連歌意玉の句。駿府に向かうのに十四日から十八日まで五日かけている。途中水が出たようで1日多そうだが、これくらいが普通の感覚だろう。他のところで出てくる地理感覚がどれだけおかしいか。壬八月十九日家康がまた敬称なしになっている。その前に出てくる殿様と同一人物か否か。九月四日五日続けて連歌。四日はていしゆ代二正佐、五日は(和州)長秀の句が出ている。和州長秀というのが少し気になり、『信長公記』の著者太田牛一が和泉守で、丹羽長秀に仕えていたとのこと。二人は実は同一人物で、丹羽長秀は太田牛一が自分のことを最大限脚色して大名にまで仕立て上げたのかも知れない。十三日も連歌。家忠の句。十七日家康敬称なし。この後も、一ヶ所の上様を除いて全て家康。
十月九日木すゑの秋大書。霜月十三日石川伯耆守上方へ退き候。十月に人質の話が多く出ており、この日記では前年の十二月におきい様(秀康のことか)を上方に送ったことになっているが、実際にはこの頃までそれは議論になっていることも書かれており、石川伯耆の出奔というのは秀康の付き添いで上方に行った、と言うことではないか。霜月廿八日尾州小田源五殿と再び小田に殿がついている。石川伯耆の“出奔”のためか、再び局面が変わったとみるべきだろう。廿九日大なへ亥刻ゆる、天正地震のことか。極月にはなへゆるという言葉が多く出てくる。余震が続いたと言うことだろうか。月末に本田作左とのやりとりが三度出てくる。本田作左は重次とされ、その息子を秀康と共に秀吉の元に送ったとされている。なお、本田氏は基本的に本多で伝わっているが、ここでは本田になっていることには注目したい。作左については『家忠日記』のために、実際の人物像とは異なった部分が伝わっている可能性がある。先の石川伯耆の上洛がらみで実際の本多作左衛門とは違う人物と何らかの話があったのかもしれない。