天正十年。
この年は、年初から正月から短歌が二つ並ぶという奇妙な始まり方。前年末には信長から武田勝頼への最後通告のようなものが出された時期に当たるようで、それに関わってのことだろうか。この月も振舞が多い。牧野新二郎が二日続けて、都筑太夫は風呂振舞、小丹(小笠原丹後か)、輿五左衛門、喜平など。連歌の発句は康定。十六日には息子が生まれた様子。
二月には武田攻めが動き出したためか動きが慌ただしい。三月十一日には勝頼父子を討ち取る。十三日に西尾殿という人物が上から来ている。四月、この頃は上様は信長を指しているようだ。五月十五日連歌発句はていしゆ。
六月。三日京都にて上様ニ明知日向守、小田七兵衛別心にて御生かい候由とある。二日早朝の事件が、犯人まで含めて翌日に雨が降っているとある岡崎まで伝わるとはにわかには信じがたい。そして翌日には家康が岡崎まで帰ったということが伝わるというのも更に信じがたい。本能寺の変の真相自体にも関わることであろうが、この記録は少なくとも当日ではなく、後からメモか何かを便りに書いた物であろうと思われる。七日には、かりや水野宗兵へが討死との間違い情報を書いていることから、リアルタイムで記録していたと見せたいようだが、それは少し無理がありそう。八日に小田七兵衛が三七殿に成敗されたとのこと。ここで気になるのは、少なくとも家忠日記では信長が織田であるという書き方は一際されず、そして反乱者側に小田七兵衛がいると言うこと。元々死んだのは織田信長ではなく、むしろ誰かを討った側に居たのが小田七兵衛なる人物で、それを後から織田信長という人物にして話を入れ替えている可能性もありそう。信というのは武田氏の通字であり、そして信虎は京に上っている。その子孫の誰かが小田七兵衛に討たれ、それを織田信長が討たれた、ということにして、それをベースにして『信長公記』が書かれた可能性もありそうだ。更に、小田七兵衛だけが先に大坂で討たれているというのも気になる。明智光秀はもとより主犯ではなく、巻き添えで後から討たれたのかも知れない。なお、四日の記事には七兵衛殿別心ハセツ也、とあり、殿つきで書かれていることからも、様々な可能性が考えられる記述であると言える。ただ、老獪な作者がここまで突っ込みやすいことを書いている、ということ自体罠である可能性もある。あるいは『信長公記』は嘘である、と言う根拠となるような記述を含めることで、この『家忠日記』の信頼性を高めたのかも知れない。信長の話を整理する時に、この『家忠日記』の記述を元に対抗したら、後から『家忠日記』の中身を全部飲まされてしまった、と言うことかも知れない。だとすれば、だからこそ少なくともこの本能寺の変の記述については、通説よりも『家忠日記』の内容の方が真実にちかいと受け止める人が多かったのではないか。
七月には甲州、信州方面をまわったようだ。八月から十二月の頭まで甲州にいた様子。小口番というのがずっと出てくるが、それがどこなのかよくわからない。
この年は本能寺の変以外にはほとんど見るところがないが、この本能寺の変こそが『家忠日記』が珍重される最大の理由でありそう。その後家康が半年に亘って甲斐を直轄したことからも、やはり甲州の本来の主であった人物が討たれたと考えた方が筋が通りそうに感じる。