前回、神託に関する部分で、宇佐八幡神託事件について触れたが、そこで書いた通り、この事件は孝謙天皇を政治的に貶めることで、奈良期に終わりをもたらした事件だと言える。八幡神は、東三河地域にも関わりがあり、時期的にも竹取物語の話に繋がってきそうなので、ここでまとめて見たい。八幡社は様々な神社の中で全国で一番多くの数があるといわれる神社であるが、なぜそのように広い信仰を集めたのかについては謎に包まれている。まずはそこから少しずつ迫ってみたい。
八幡の神とは、八幡神・八幡大伸・八幡大明神または八幡大菩薩の略称で、古来広く信仰されてきた神であり、鉱山神、鍛冶神、海の神、あるいは渡来神、土着信仰など様々な顔を持つ。全国の代表的な八幡社として、宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮あるいは鶴岡八幡宮がある。簡単にこれらの八幡社の起源をそれぞれ紐解いてみたい。
まず、八幡信仰の本宮とされる宇佐神宮は、欽明天皇32年の創建とされるが、その根拠となる託宣は八幡が日本に降臨した年としてその記述をしており、直接宇佐神宮の創建とは関連づけがたい。実際の創建時期については後程また検討するとして、記録から見ると全国に名が知られるのは早くとも奈良時代ということになりそう。同じ託宣集の中で、筥崎宮の託宣として「我が宇佐宮よりは、穂浪大分宮は我の本宮なり。《八幡宇佐宮御託宣集》」とし、宇佐宮の本宮が筥崎宮であり、更にその本宮が穂浪大分宮であるとしている。筥崎宮の創建は、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座となっている《筥崎宮サイト http://www.hakozakigu.or.jp/history/》。そして大分宮は神亀3年(726年)に創建となっており《大分八幡宮(飯塚市ホームページ) http://www.kankou-iizuka.jp/homepage/sub.asp?id=90&no=1》、いずれも奈良時代以降の創建であり、更に重要なことに、大分宮という表現を重視すれば3社とも八幡を冠しているわけではない。
畿内の石清水八幡宮は、平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教が豊前国宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り男山の峯に御神霊を奉った起源で、貞観2(860)年、同所に遷座したことから始まるという《石清水八幡宮公式サイト http://www.iwashimizu.or.jp/about/history.html》。また、鶴岡八幡宮は康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に祀ったのが始まりだとする。いずれも平安中後期で、更に下った時期となる。
いずれにしても、記紀にも出てこない謎の神である八幡神を祀る八幡社の創建については、まだまだ解明されていないことが多くあるようだ。