さて、一旦グラマンに変わった契約が再びロッキードに戻るのに力を貸したのが河野一郎で、昭和33年8月14日に左藤防衛庁長官にグラマン採用の再検討を要請したとされる。この間の経緯は一体どういったものだったのか。
まず、33年4月にグラマン採用の決定がなされたところまで書いた。その後、5月に衆議院選挙が行われ、6月に第2次岸内閣が成立する。ここで河野一郎は経済企画庁長官から自民党総務会長に横滑りする。党三役は、幹事長が川島正次郎、総務会長が河野一郎、政務調査会長が福田赳夫となった。ここで、この年の春頃に、ロッキード社長、この頃はおそらく海外統括法人の社長であったと考えられるが、そのジョン・ケネス・ハルが、ジャパンPRの福田太郎を介して、児玉誉士夫が主宰し、河野一郎、永田雅一、萩原吉太郎をメンバーとする「タキシード会」への接近があったとされる。それを受けてのことかどうかはわからないが、同年7月に第一物産がロッキード社との代理契約を破棄したとされ、翌8月にはロッキードが丸紅と代理店契約を結んだとされる。第一物産が外れたことにより、ライセンス生産先の切り替えが可能になったのだと考えられ、それを受けての8月14日の河野一郎による左藤防衛庁長官へのグラマン採用の再検討要請という事になるのだろう。このあたりの事情は追々明らかにしてゆく。
ここで、まず、河野一郎が深く関わった昭和31年の日ソ共同宣言にも注目する必要があるのだろう。戦闘機というのは、当然戦争のための道具であり、その対象がどこであるのか、によって、その性能なども大きく影響を受けるからだ。そして、F86は、朝鮮戦争でソ連の戦闘機に対して歯が立たなかったので、FXの話が出てきたともされる。そこで、当時の国際情勢に目を移してみると、同じ1956年(昭和31年)、河野や鳩山のモスクワ訪問に先だって、フルシチョフのスターリン批判があり、スターリン時代の大粛正などが問題として取り上げられた。これを受けて鳩山政権は慌てふためいてソ連との国交正常化に動き出した。結果的に鳩山はこの日ソ共同宣言を花道にして首相退陣となる。本来ならば、吉田の後に満を持して登場したはずの鳩山政権は、2年やそこらで退陣する予定ではなかったのだろうと考えられる。それが、スターリン批判によって転がり落ちるかのように日ソ共同宣言、そして退陣へと流れてゆく。これは、戦前からの鳩山の行動を見れば、シベリア抑留、あるいはソ連の対日参戦などについて、何か非常にやましい部分を持っており、それが露見するのをおそれた結果なのだろうと考えられるが、それ自体はここで触れることはしない。
とにかく、おそらくスターリン批判から河野の訪ソがきっかけとなってシベリア抑留者の帰国が始まったのだと考えられる。それと同時に、中国からも満州残留の日本人が帰国し始めた。それは、中国戦線における日本軍の行動についての総括を伴うものであったと考えられる。中国戦線で終始主力を務めたのが、名古屋の第三師団と仙台の第十三師団であった。特に第三師団は、第2次上海事変という日中戦争のきっかけとなった事変に最初から投入されて、ずっと中国戦線に張り付きっぱなしであった。一方、第2次よりもはるかに言いがかり的で、決定的に上海の対日感情を悪化させた第1次上海事変に投入された金沢第9師団はその後第2次世界大戦を通じて戦場に投入されることもなく、同じく久留米第12師団も大戦中は満州駐留で、基本的には直接戦闘はなかった。そして第三師団と同じく第2次上海事変に最初から投入され第1次上海事変にも参戦していた善通寺第11師団は、その後満州に回されている。つまり、第三師団は先行投入された師団がめちゃくちゃにした中国戦線における対日イメージの中でひたすら尻ぬぐいをさせられたのだといえるのだ。そんな中、鳩山政権は、ソ連との国交回復のために、ソ連、あるいは中国共産党側の歴史観を受け入れるということが条件として浮上してくる。これは、ソ連や中国の歴史観というよりも、むしろ鳩山や河野の歴史観であると言ってもよいと思うのだが、その歴史観というのは、実際に中国戦線で戦った人々にとっては受け入れがたいものが多かったことだろう。特に、第三師団にとっては、そんなことを言われる筋合いはない、という事がかなりあったのではないだろうか。例えば、中国軍が黄河の堤防を切ってそこら中を水没させたという事件があったが、それもなぜか日本軍が悪かった、というような話で伝わることになれば、それは冗談ではない、ということになるのも当然だろう。そこで、特に名古屋において、金をばらまいて、日本軍は中国でひどいことをした、というプロパガンダを行ったのではないかと考えられる。それは非常にゆがんだ形で愛知県の政治情勢を形作っていった。後に愛知県は民社党が非常に強い地域となるが、民社党は強い反共姿勢で知られていた。つまり、このプロパガンダへの反発が独特の政治風土を作っていったのではないかと考えられるのだ。民社党はもっと後になってからの結成だが、CIAが資金源であったともされ、何らかの国際的な不透明資金が既にこの時期から名古屋周辺にも流入していたのかも知れない。
それはともかく、このあたり、国際情勢に深入りすると抜け出せなくなってしまうので、軽く触れるに止めたいが、ソ連の共産党が一枚岩ではないという事は既に述べた。その中で、スターリン批判として出ているが、実際にはこれを行ったのは、スターリンではなく、どちらかといえばトロツキー派に属する人々であろうと考えられる。そこを直接名指しすると政治的に収まらない、という事で、既にこの世にいないスターリンの名で、戦時中の悪事を公表したのだと言える。その悪事の首謀者として、KGBの前身であるチェーカーにも所属し、反革命の取り締まりに辣腕を振るったこともあったという閣僚会議議長のブルガーニンがいたと考えられ、そして日ソ共同宣言はそのブルガーニンとの間で交わされた。ブルガーニンは、日ソ共同宣言にサインした後、反党グループとしてフルシチョフに反抗したため、失脚している。この日ソ共同宣言については非常に問題が大きいが、ここで触れると大変なことになってしまうので、ここでは触れない。大陸からの帰国に伴って共産党系の資金が流れ込んでいたとしたら、それはブルガーニンとつながるものであったと考えられ、その資金が断たれてしまった以上、鳩山-河野ラインは何らかの新しい国際的な伝手を見つける必要があったのかもしれない。
そこで目を付けたのがFXに関わる米国軍需産業とのつながりだ。ロッキードやダグラスはどちらかといえば民間機に主体を置いた企業で、軍産複合体の枠組みでいえば傍流に過ぎなかった。ボーイングやグラマン、そして後に第3次FXで導入されるF4を生産するマクドネルといったところの方が、より軍産複合体に近いところであったと言える。このあたりも細かく触れると非常に複雑になるので、ちょっと無理があるがざっくりとした流れだけで止めておくと、鳩山-河野路線は、おそらくこの時点で、1958年に初飛行がなされたマクドネルのF-4に狙いを定めていたのではないかと考えられる。だから、第3次FXで20年に亘ったFXの問題は一応けりがついたのだと思われるのだ。これは、ロッキード問題に至る伏流水として意識しておいた方が良いことだろう。
実は、再検討要請の2日前に、全日空DC-3型機が伊豆下田沖で墜落事故を起こしている。それを念頭に、河野一郎がグラマンの白紙撤回を要求した背景を考えてみたい。DC-3のダグラスは三井物産が代理店を務めており、おそらく中古機とされるその機体導入自体には三井物産は関わっていなかったのではないかと考えられるが、それをてこにして三井と関わりが深いと考えられる川崎航空機工業から新三菱重工へのライセンス契約切り替えが図られたのではないかと考えられるのだ。本来的には、ダグラスの機体整備は三井系の会社がやるのが筋なのだと思うが、この事故後に全日空は、3年前にできたばかりの伊藤忠航空整備会社、しかもまだ機体本体は言うに及ばず装備品の運輸省航空局認定による修理改造認定事業場すらも取得していない会社に整備を任せているようなのだ。これは明らかに航空業界からの三井系外しを意図した動きであると考えられ、長期的に見れば、その延長線上に川崎航空機工業外しがあったと考えられそう。
このあたり説明に少し無理があるので、もう少し別の角度から、なぜこの日に河野一郎がグラマン白紙撤回の要請をしなければならなかったかを考えてみたい。この日、日本時間の午前11頃、アイルランド沖でKLM607E便が乗員乗客あわせて99名を乗せたまま墜落した。その機体はロッキードのコンステレーションであり、機体もエンジン形式も全く違うとはいえ、ロッキードの飛行機が落ちたとなると、早めにグラマンを撤回してロッキードへの流れを作っておかないと、どう転ぶかわからない、という緊急事態が発生したのだ。だから、環境的にはまだまだロッキードで押し切れるというところまでは熟していなかったとは言え、無理にでも走り出す必要が出てきたのだろう。あるいは、F86でもっと時間を稼いで、直接マクドネルF4につなごうとしていたのかも知れないが、とにかく状況の急変によって、ここでロッキードを意識した方向性となったのだろう。
状況が複雑すぎて、なかなかうまくまとまらないが、とりあえずはここまでとする。
参考文献
「航空機疑獄の全容-田中角栄を裁く」 日本共産党中央委員会出版局
「瀬島龍三 参謀の昭和史」 保阪正康 文芸春秋
「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 有馬哲夫 文芸春秋