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家忠日記覚書12

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  • starai
  • 2022/01/17 12:11

天正十八年

正月七日関白様尾州信雄むすめ子御養子被成、若君様と御祝言被仰合候、とのことで若君様が御上洛。信雄への敬称がとれている。十三日連歌。二月二日出陣。先陣のはずなのに、沼津についたのが廿五日と随分ゆったりした旅程。三月には関白様の動静が伝わるが、その旅程が吉原、吉田、田中、駿府というようになっており、殿様の時と吉原の位置が随分違う。殿様の旅程に時間が掛かっていることも考え、あわよくば奥州まで一気に進んだことにしたかったのではとの疑いがある。その上で廿六日にふたたび関白様よしハら迄御成候として、漢字と仮名の使い分けで解釈の幅を広げている。四月四日小田(原)迄をしこミ候、として自ら仕込みを認めているのか。四月はその後延々と普請。七月まで戦が続き、落城。このあたり、違和感もいろいろあるが、土地勘も、その地域での感覚もわからないので、余り深くは触れないこととする。

八月十六日連歌。家忠の句。廿九日をしの城受け取り。これによって家忠は忍城主となったと理解されるのだろう。九月廿四日上方常陸殿衆、廿五日淺野弾正殿衆、廿八日せいせんし振舞。去る廿四日ニ小田原にてむす子まうけ候由候とのこと。七月半ばまで敵の城で、その後本拠にしたわけでもない小田原に身ごもった妻を迎えるという感覚はちょっと理解しがたい。振返ってみると、八月廿二日に興国寺ニをき候女子去る廿日ニ小田原へ越候、とあり、その後本人が小田原入りしたのが廿三日だという。妻子引っ越しのためにふこうずに戻ったはずなのに、いつの間にか臨月間近の身重の妻の方が先行して、落城後一月余りの城に先に入っているというのだ。いくら何でも設定に無理がありすぎる。地名の入れ替えということもさることながら、小田原との関わりを付けることで、その地名の固定化、既成事実化を図ったものであるといえよう。

十月九日家忠発句の連歌。十月廿日身類衆知行分候とあり、三千石余りを九人に分与している。後に出てくるが、まだ正式な朱印は出ていない。既成事実化であると言える。十一月二日には小田原から女子を迎えている。生まれたばかりの子を含めた家族まで連れてきてしまえば、もはや文句も言えなかろう、ということか。ちなみに忍城の受け取りは、八月廿六日に江戸まで行きながら煩わしくて出仕せず、そこに甲賀者と考えられる深尾清十郎から早く移るように、と言う御意を聞いたとしている。この深尾清十郎は後に家忠と共に伏見城の合戦で討死したとされる。

十一月十二日連歌。正佐も一緒に移ってきたのか、句が採録されている。十二月五日には江戸で登城したが、機嫌が悪くて会えなかったとある。翌六日奥州一揆で出馬だが、をしの留守居となったと言う。富長三右衛門、名倉喜八などへの振舞。廿一日伊熊蔵長野迄こし候て、あいニこし候とのこと。廿六日家忠発句の連歌。

 

天正十九年

正月十一日、奥州無事、とのこと。このあたり、一般的な葛西大崎一揆の推移とはずれている。前年七月に関白様があい津筋へ行ったという事以来消息が途切れており、本当に関白様が奥州はもちろん、小田原攻めすらも来たのかどうか検討する必要はありそう。小田原攻めは家康に先行させておいて、奥州へは自分が先立っていき、その後の消息も出てこないという状態は余りに不審。八日の行間に関白様より奥州表へ御働候へ之由ニて、殿様十一日ニこか邊まで御出馬之由候とあって、その十一日に奥州無事として淺野弾正殿頓而御帰陣之由候とある。つまり、淺野弾正がこか方面から江戸に入るという話があり、それにあわせて行間に殿様名義で追加記入した可能性がありそう。そしてこの記述から浅野氏と秀吉の近親関係の話が構築されていったのではないかと疑われる。この間九日には玄蕃が帰るという記事とともに、大坂より福松様江戸へ御帰、とあり、いわゆる武田信吉の江戸入りに絡んで又何かいろいろ仕組んでいるように感じられる。これは天正十八年正月に上洛した若君とは別の設定になるのか。それにしても、同時期に、秀康(御きい様)、秀忠(若君様)、そして信吉(福松様)と三人の息子を上方に出すという状態はなかなか想像しがたい。十四日中納言殿武州府中迄後出陣候て、殿様江戸より御越候由候、とあり、おそらく同一人物による同じ行動なのに、それを中納言と殿様にわざわざ分離させている。つまり、出陣されたのは中納言様だが、お越しになって面会したのは殿様である、として、中納言様は別にいる、と言う話にしている可能性がある。なお、家康は時期はずれるが権中納言だったとされ、この時期に権のつかない中納言が本当にいたのかはわからない。十九日に、殿様来廿一日ニ御上洛之由申来候、とありながら、廿二日に江戸より殿様御上洛延候而、早々出仕候へ之由申来候とあり、廿五日に出仕して福松様へかけの馬進上候、とあり、翌廿六日にはうらハの宿迄帰候、のあとに、御上洛三日までのひ候由候とあり、翌壬正月五日に殿様三日に御上洛之由候と出てくる。上洛延期で出仕するよう言われて出仕し、直接の話は何もなく、江戸を出た後に更に上洛延期が伝わり、上洛二日後に実際の上洛の話が伝わる、と言う、何ともわかりにくい事で、とにかくこの文面からだけでは、福松に会うための出仕に言い訳をいろいろ付けただけのようにも見えるし、そもそも福松という人物がいたのか、ということすらも疑わしくなってくる。一月廿八日には発句家忠の連歌。

壬正月もいろいろな記事があり、何らかの動きをしているのだろうが、今はちょっと読み解けそうもない。二月六日やくらへ参候、江戸方々ニ又御國替之沙汰候とあり、やかたが誰を指すのかわからないが、とにかく國替の話が今更出ている様子。天正十一年の國替の大書と現実の動きとのすりあわせであるとも言えそうで、この段階でもまだ実際には國替はなされていなかった可能性がありそう。二月晦日殿様御仕合一段能候由候、とあり、三月六日殿様来三日京都ヲ御出之由候、来の左に去とあり、間違えたのか、意図的に混乱させようとしているのか。つまり来月三日の線も残していたのかも知れない。三月十七日、伊奈熊蔵所より知行方書出壹万貫こし候、と出てくる。つまり、『家忠日記』の著者に知行を与えたのは伊奈熊蔵であり、それが何の権利があってそのようなことができたかは明かではない。『家忠日記』の中での妄想に過ぎない可能性もある。十八日、知行之禮ニ熊蔵所へ人をこし候、「酉刻城へぬす人おい入候ものからめ候、」とある、むしろ盗人はこの勝手な知行付与ではないのか、と言う気がするが、物は言い様と言うことか。廿三日殿様京都より御下向之由申来候、とのことで、要するに殿様がいない内に勝手に知行付与をした、ということで、来月三日の線も残していたというのが、この知行の話が通る(何に対して通るのかも定かでないが)か否か、と言うことだったのではないかと思われる。

四月二日江戸の御普請壹万貫五人つゝ越候へ之由普請奉行より申来候、とあり、知行は別枠で確保した上で普請料として壹万貫を手にした模様。四月六日、十二日、十三日、廿五日と、知行のことについて繰り返し触れられている。五月十四日、江戸より関八州之能、東堂長老御よせ候て、とあり、関八州のこと自体、この時点でまだ宙に浮いているようだし、その関八州がどこに当たるのかも定かではないのだといえる。六月五日、熊蔵所より、知行の儀、新郷近所にて渡候由申来候、六日、伊奈熊蔵熊谷へこし候て、知行壹万石渡候、とのことで、ついに壹万貫が壹万石に化けることになった。とは言っても、これはまだ伊奈熊蔵からなので、それが実際に公儀から出るのかはまだこの時点ではわからない。六月七日江戸自家康黒印以、七月下旬ニ奥州表へ御陣之由申来候、とのことで、出陣の黒印は家康より出ているのにもかかわらず、知行はそうではない。そして、このタイミングでこの二つの記事を並べたのは、奥州への出陣に対する褒美の言質を取るためだとみて良いだろう。つまり、出陣の黒印が来たのを確認してからその前日に知行についてお手盛りで記事を作った可能性が高い、と言うこと。そして十九日には、江戸より、今度の御陣ハ當城御留守居候ヘ之由申来候、とあり、家康の黒印自体も本当にあったのか怪しくなってくる。七月十九日には実際に家康が岩付まで出馬したとの記事がある。

九月八日、寺西藤五郎、福松様より當忍領の奉行ニ被仰付候て越候、とのことで、福松からの奉行指名が忍支配の正当性根拠となってくる。当時忍という地名が武蔵に実在したのか、というのはわからないが、いずれにしてもここでそれを寺西藤五郎に売ったことで、家忠は次の知行地に移る準備が整ったと言うことであろう。十月五日関白様唐入必定にて、殿様も御ともの由候、中納言様へ天下参候由候、と、殿様が帰城したかもわからない(後を読んでもわからない)状態で勝手に殿様の唐入の話まで走らせる。唐入の有無さえも疑わせるようなすきにつけ込んだ記述であるが、そこまで深入りすると焦点がぼやけるので、とにかく殿様の留守の間にその情報をどこからともなく手に入れた、と言うことに注目するに止める。十九日に中納言様うつのミや迄御帰陣之由候、とあり、十九日というのを一つの目処にして話を進めていた様子が窺われる。晦日には殿様来十四五日頃ニ忍へ御たかのに御こし候ハん之由候、となり、江戸に帰ったか帰らないかわからないうちに忍へ来る、という話に変わる。

十一月三日、忍へ帰候、四日陣へ被越候御福松様衆ふる舞候、とあり、福松直属の家来衆が忍へ来た、という話になる。廿三日、殿様今日岩付迄御たかのに御越候由、江戸より申来候、と今日岩付迄来たという話が江戸から届くという、地理的な混乱あり。十二月三日若君様京都より御下向之由候、とある。前年の正月に信雄の娘と結婚のために上洛以来の登場で、十一月十三日にはちゃ〱江戸に越候、とあり、現状の通説の秀忠が信雄の娘小姫と婚約、その後に茶々(淀君)の妹小督と結婚、という話と違う話が元だったのかも知れないことを窺わせる。この月は若君様関係の記事がいくつか見られる。

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歴史好きです。『家忠日記』をぼちぼち読んでいこうと思います。https://kanrando.rollcabbage.com/

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