では、その法蓮への宇佐姓付与のきっかけとなった隼人の反乱についてみてみたい。託宣集と続日本紀では登場人物も含め内容がずいぶん違うが、順にみてゆきたい。託宣集では、薦枕の話が詳述されている。八幡宮の八幡神の託宣を受け、豊前守宇努首男人(ウヌノオビトオヒト)が将軍として官符を賜り神輿を準備するのに、大神諸男(おおがのもろお)が八幡神の御験を探すと「宝池は大菩薩御修行の昔、湧き出でしむる水なり」と気づき、三角池で祈ると「この薦を枕となし…」という内容の託宣を受けたので、薦(真薦)を刈り取り、別屋を造って7日間参籠し、薦による枕を作成、神輿に乗せて出陣した。その軍には法蓮も同行したという。このように「託宣集」は隼人征伐を詳しく記述する一方、「承和縁起」は事後を重視し、大御神が辛嶋勝波豆米に「隼人ら多く殺したる報いに、年ごとに放生会を修すべし。」(託宣集では年ごとに2度)と託宣したという。続日本紀では、大隅国守陽候史麻呂が殺害され隼人の反乱が起こり、大伴旅人が大将軍、笠御室と巨勢真人を副将軍として平定したことは記されるが、八幡神についての記述はない。この戦の最中養老4年8月に、大伴旅人は藤原不比等の死を受けて、あとを副将軍に託して帰京している。この大変あわただしい状況を読み解くのにもう一つ重要なのが、日本書紀、あるいは単に日本紀の撰上である。2月に隼人反乱の報告があり、3月に旅人出陣、そのすきを縫うように5月に日本紀が撰上され8月に不比等の死を受け帰京となる。そして不比等は上述の養老律令の編纂にも取り掛かっていたとされる。これらを総合すると、隼人の反乱とは、もし法蓮が実在だったとしたら、実際には法蓮が私領化した40町の野の相続をめぐって発生した問題であり、養老律令でそれについてどう定めるかについての駆け引きがあり、不比等の次の最高責任者の旅人を都から離れさせるための反乱であり、その結果として、大隅での班田収授が遅れ、三世一身法が導入され、そして養老律令での寺社の租の除外という流れが見えてくるのではないだろうか。なお、薦枕と放生会の話は、そのまま行幸会と放生会として現在まで儀式として続いていることになる。これらは明らかに対立文脈であり、征伐側の薦枕と被討伐側の放生会ということになる。託宣集が宇佐神宮に、そして承和縁起が石清水八幡宮に伝わるものであるということにも注目すべきだろう。