大久保忠世の嫡男が忠隣である。忠隣は天文22年に三河額田郡で生まれたとされる。三方ヶ原の合戦で最後まで家康に付き従って浜松城まで逃れたので、その功によって奉行になったとされる。色々とおかしな感じで、まず、三方ヶ原にまで信玄の進出を許したのは、もし大久保氏が二俣城主であったとするのならば、明らかに天竜川東岸の要衝である二俣城主大久保氏の責任が問われる話で、それが家康と一緒に戦場離脱して反対側の浜松城に逃げ帰るとは一体何事だ、ということである。家康自身が目の前を通過されるのは我慢がならぬといって浜松からわざわざ出陣して迎え撃っているのに、例えば挟み撃ちにするなどの知恵を出すこともなく、浜松に逃げ帰るなどというのは、無能という言葉で片付けられるものではない。二俣城主であったということか、功によって奉行になったというのか、少なくともどちらか一方は嘘であろう。忠世はともかく、忠隣が二俣城にいたという資料があるのかどうかは知らないが、いずれにしても私は大久保氏が二俣城主であったということはまず嘘であろうと考えているので、果たして功によって奉行になったというのが嘘か誠か、ということであろう。そして、いずれにしても、奉行というのはそれほど高い役職ではなく、少なくとも代官の下であろうから、功によってどうこうというほどのこともないのでは、という気はする。
武田氏が滅びた後には、どうも甲斐信濃の統治を行なったことになっているようだ。父親が小諸という、北信地方を担当し、息子の方が南信と甲斐一国というのはバランス的にどうか、という感じはする。そして甲斐の統治には他の名も挙がっているので、忠隣が甲斐の統治を行なったということはないのだろうと思う。そんな中で、大久保長安という人物が忠隣の配下で良い統治をして、そのために大久保という姓を得たのだ、とされる。私は、実はこれは逆ではないかと考えている。江戸初期における大久保長安の存在感は圧倒的であり、甲斐という非常に歴史の深い地域で一代でそこまで成り上がったということ自体、長安の実力を示している。そして、長安は甲斐にとどまらず関東を含めて代官の職についており、代官というのは少なくとも江戸初期においては譜代の最高職であると考えられ、だから長安の方が本家で、本来は大蔵長安であったものを、忠隣がそれに近い名の大久保を名乗り、そしてその名で悪事を色々としたのではないかと考えられる。長安の没後、その一族がことごとく罰せられたというのは、忠隣がその名を騙った悪事を全部長安の一族のせいにしたのではないかと思われるのだ。むしろ、長安の一族とされるのは、自称ばかりで、実際に長安とは血の繋がりがないのにそれを騙っていたということで罰せられたのではないか。それは、小田原の大久保忠隣の元で自害させられたとされ、忠隣による口封じだと見られないこともない。
その後結局忠隣自身も小田原から改易ということになる。小田原城は破却で、身柄は井伊直孝に預けられた。忠隣が改易となったのは、長安が没した翌年の正月だとされるが、それは、かつて武田信吉に仕えており、その没後小田原で忠隣のもとに預かりとなっていたという馬場八左衛門の駕籠訴によるものだという。これはおそらく実際には、忠隣は小田原城主でもなんでもなく、単に代官である長安麾下の奉行であったのが、長安没後代官のような顔をして小田原に居座っていたのを追い出されたのではないかと考えられる。長安の元の姓とされる土屋も、この馬場も、甲陽軍鑑において名将とされている武将の姓であるが、その話自体多くが作られたものであると考えられ、だからここでその馬場の名前が出てきたのは、おそらく本当の話ではないのだろうと思う。全体として武田神話が作られる中で、忠隣はその叔父の忠教に『三河物語』を書かせ、甲陽軍鑑と整合的な話を作り出したのではないかと考えられる。というか、そこまで話を作っている以上、そもそも忠隣なる人物が本当にいたのかすらも怪しいのではないかと感じられる。すべて忠佐の作り話の中に出てくる人物で、実在はせず、大久保氏というのは、忠教の『三河物語』によって作られた一族であると考えて良いのではないだろうか。ちなみに忠教の舅は馬場信成であるという。それはともかく、それくらいに、この大久保忠隣という人物には現実感がない。