児玉ルートは、児玉誉士夫がロッキードからコンサルタント料などとして昭和47年から51年にかけての4年間で28億円余りの所得がありながら、そのうち19億円余りを隠したとする所得税法違反として、そしてその中のロッキードからの所得16億円超のうち、時効の成立していない48年以降分が外為法違反を秘書の太刀川恒夫と共謀したものとして起訴されたものだ。
児玉誉士夫の戦前の経歴については、とても一貫性を持ったものだとは思えず、信頼性が薄いのではないかと思われる。政界フィクサーとなった金の出所がどこなのか、というのが一番重要なのだと思うが、今のところまだちょっとわからない。アメリカ国内の政治情勢とも関わっているようで、その評価次第で今まで書いてきたこと、そしてこれから書くことも、その解釈が変わる可能性はかなりあることを注記しておきたい。
とにかく児玉は一貫してロッキードの代理人を務めていたが、その児玉とロッキードとの関わりは、昭和32年頃からF-104の売り込みに当たっていたロッキードのジョン・ケネス・ハルが33年4月頃にジャパン・パブリック・リレーションズの代表取締役福田太郎の紹介・通訳で児玉に協力要請することから始まった。その後、第2次FXのCL-1010、そしてトライスターL-1011、さらには対潜哨戒機P-3Cの売り込みのコンサルタントとして、継続的にロッキードと関わっていた。その契約は、昭和48年7月頃に契約書が交わされるまでは、契約書なしの、暗黙の契約であった。
その契約書が交わされた経緯であるが、まず昭和48年1月3日に児玉の自宅に泥棒が入り、スイス・クレジット銀行振り出しのアメリカドル建て自己宛小切手14通、額面合計1,666,667アメリカドル及び日本円現金306万円ぐらいなどを入れたアタッシュケース一つが盗まれたということが、児玉から警察に通報され、警察の捜査が入った。それに対してロッキードでは当然問題となり、2月頃にコーチャンはロッキード社の会計監査委員会などから、児玉に対する巨額の支払いの契約書を作成するよういわれた。それを受けてロッキードはその契約方式に従って契約書を作成し、毎年5,000万円の支払いを定めた基本契約書を44年1月15日、引き渡し時の成果報酬を定めた修正1号契約書を同年6月1日付で発行し、児玉が署名捺印した。
これは大変不審な流れであり、正月早々自宅に泥棒が入り、そこにたまたまあった小切手と現金入りのアタッシュケースが盗まれ、その明るみに出ては困る盗難事故をわざわざ警察に届け、その結果としてバックデートで契約書が締結される、というものだ。これは、全体を振り返ってみれば、バックデートでの契約書が発行された合理的理由を付けるために泥棒に入らせた、とも言えそうだ。つまり、実態とは異なった金の流れに説明を付けるためのものだと言える。では、元々裏金で、隠し通せば良いものを、わざわざ正式契約書を締結して表に出した理由はいったいどこにあるのか、と言うことになる。
そこで、盗難事件に至るまでの流れを、更に半年ほど時計の針を巻き戻してみる。昭和47年5月15日の沖縄返還に先だって、9日に田中派が佐藤派から分離独立した。一方選挙イヤーのアメリカでは翌6月17日にウォーターゲート事件が発生、民主党本部の入っていたウォーターゲートビルに何者かが盗聴器を仕掛けるために潜入した。選挙戦は余裕だと考えられていたニクソンは、ホワイトハウスは無関係であるとして無視を決め込んだ。民主党の大統領候補マクガヴァンはベトナム戦争の終結を訴えていた。そこで、ベトナム戦争が下火になったことから苦境に陥って政府支援を受けることになったとされるロッキードに注目が集まることとなり、その支援に関わる汚職について選挙戦で何らかの形で表に出る可能性はあったのだろう。それをおそれての盗聴器設置と言えるのかも知れず、あるいはその手口のプロらしからぬ稚拙さを見れば、そこに目を向けさせないようにするためのカモフラージュだとも言えるのかも知れない。このあたりは1971年8月のロッキード救済についてもっと深く調べる必要があるので、ここではしばらく措く。さて日本では、昭和47年6月16日、前日に不信任決議を否決した佐藤総理は総理・総裁を辞めることを表明し、そんな中前回書いたように7月1日に45/47体制につながる閣議了解がなされ、5日に田中が自民党総裁に選任され、7日田中内閣が発足する。このあたりの政治状況はまた後からまとめるが、とにかく国内的にも国際的にも非常に流動的な状態であった。アメリカでは11月にニクソンが再選され、翌12月18日にはベトナム北爆を再開している。その年は日航機が飛行機事故を頻発させており、佐藤総理不信任案議決の前日6月14日にニューデリー墜落事故、そして11月28日にモスクワでシェレメーチエヴォ墜落事故という乗客に犠牲者を出した事故が相次いで発生し、いずれもダグラスのDC-8の機体であった。一方12月29日には、アメリカ・イースタン航空401便墜落事故がフロリダ州エバーグレーズで発生した。こちらはトライスターL-1011であった。
そんな状態で年が明けて1月3日に小切手盗難事件、そして8日にウォーターゲート・セブンと呼ばれる被告たちが大陪審にかけられ、5人が有罪を認めた。つまり、トライスターの事故が起きてその評判に傷がつき、さらにはウォーターゲートの裁判が日程に上ってきていることで、ロッキード救済に関わる話がどう転ぶか不透明になってきたということがあり、児玉が契約書なしの金に責任がとれなくなって、盗難事件が起きた、という筋書きではないかと考えられるのだ。実際にはコンサルタント料などという定まった額ではなく、その都度政治献金に使われていた可能性は大いにあるが、それがこの正式契約によって跡が追えなくなってしまったということになるのだと考えられる。直接総理の職務権限ということになれば、全日空の導入機種選定よりも、政府調達であるP-3Cの方がはるかに関わりが深いわけで、その金の流れがこの正式契約によって闇に葬られた、と言うことになるのだろう。その為に、贈収賄では立件ができず、入金分を全て所得として扱った上での所得税法違反の脱税容疑となったのだと言える。
裁判では、昭和51年3月13日に所得税法違反と外為法違反容疑で在宅起訴されたが、52年6月に1回だけ公判に出廷した後「病気」と称して自宅を離れなかったために公判は進まなかった。その後55年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の59年1月に児玉は亡くなった。なお、その遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。
参考文献
「戦後政治裁判史録5」 第一法規 田中二郎・佐藤功・野村二郎 編
「航空機疑獄の全容-田中角栄を裁く」 日本共産党中央委員会出版局
「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 有馬哲夫 文芸春秋
*なお、この考えは固定的なものではなく、シリーズを追うに従って見方が変わってくるかもしれません。あらかじめご了承ください。











