アメリカの航空産業の様子が少し見えてきたところで、それと大きく関わるFXの問題を見てゆきたい。FXとは次期主力戦闘機のことで、航空自衛隊が出来て以来三度に亘って問題となった。戦闘機の購入というのは、数が多いので、当然金額も大きくなる。そこで強固な利権構造ができあがることになる。その様子を時系列を追うことによって確かめてみたい。
まず、航空自衛隊が出来た昭和29年から、米軍からロッキードの練習機T33と、ノースアメリカンの戦闘機F86が供与及びノックダウン生産された。それは後にライセンス生産に切り替わり、T33が川崎航空機工業、F86が新三菱重工がそれぞれ担当することとなった。この時期はジェットエンジンの黎明期ということで、技術の陳腐化が非常に速く、その為に、岸政権が誕生した昭和32年には、既に次世代の戦闘機と大きな性能の差が現われていた。典型的にはスピードで、第1次のFX選定のときに、最高速度マッハ2が必要要件とされ、それはF86の4倍近いスピードだった。
その第1次FX問題では、4機種、最終的には5機種で争われた。その中で、実際的な候補としては、米軍で現役で主力を張っていたノースアメリカンのF-100と、開発完了し、配備に入りかけているロッキードのF-104という二択でほぼ定まっていたと言える。その2機の性能差は明かであり、候補は最初からF-104に絞られていたと言ってよいだろう。しかしながら、当時、最も有力視されていたのが、新三菱重工と親密であったノースアメリカン社のF-100で、機首にレーダーを搭載した日本向けF-100Jの発表もなされ、さらにはそれを「つなぎ」として80機ライセンス生産させる意見も上がり、半ば決定とされていたが、F-100について当時の総理大臣岸信介に「戦闘爆撃機」と説明したために「日本に爆撃機は要らない」と一喝され、沙汰止みとなったということがあった。つまり、現場はロッキードを望んでいたが、生産側である新三菱重工がF-100をごり押ししていたのだ。
よく岸はタカ派だといわれるが、その岸に一括されるようなこの超タカ派路線を主導していたのは一体誰なのか。まず、このときの防衛政務次官は小山長規で、三菱銀行出身ということで、三菱の肩を持つだろうことは理解できる。しかし小山はそれが初めての政府の役職であり、ただの説明役であっただろうと考えられる。機種の決定権限は国防会議にあり、なぜか経済企画庁長官がそのメンバーとなっている。当時第1次岸改造内閣の時の経済企画庁長官は河野一郎であった。そして、その国防会議がいつできたのか、といえば、昭和31年7月2日で、第3次鳩山一郎内閣であった。国防会議を作るという行政制度の変更を管轄したのは、行政管理庁であると考えられ、当時の行政管理庁長官はやはり河野一郎であった。つまり、河野一郎が兵器決定の権限を持つ国防会議をつくり、その中に経済企画庁長官を含め、そしていざFX選定の時に自らがその経済企画庁長官となって機種選定に影響力を及ぼそうとしていたということなのだ。
さて、F-100の生産に関わると想定されていたのは、新三菱重工の名古屋大江工場であった。そして、その主たる納入先として、航空自衛隊小牧基地があり、大江工場は愛知1区、小牧基地は愛知2区に当たったと思われるが、それとは直接重ならない愛知3区に、河野一郎と同じ姓の河野金昇という議員がいた。この選挙区から後に江崎真澄が防衛大臣となっていることから、直接選挙区と関わらなくても、その票が無視し得なかったことがわかる。この河野金昇がかなり無理をしてこのF-100ごり押しに関わっていたのではないかと疑われるのだ。F-100どころか、そもそも小牧空港自体がかなりのごり押しのようで、Wikipediaによると、昭和19年2月1日に陸軍航空部隊の「小牧陸軍飛行場」として運用開始(滑走路1,500 m)し、20年日本の敗戦によりアメリカ軍が接収、22年5月にアメリカ軍使用開始となったが、そこに27年3月20日羽田-名古屋-伊丹の定期路線が開設されたという。接収は6年後の33年5月航空自衛隊第3航空団が移駐してきたあと、同年9月15日になされたというから、米軍基地と民間機の共用がなされていたということになる。東京における空港問題を考えると、そんなことが可能だったとは思えず、米軍の接収という話自体なかったのではないかと考えられる。そして、米軍がいたということにするために航空自衛隊を誘致したのではないだろうか。そうでなければ、33年という中途半端な時期に返還がなされるとは思えない。ここはまた後から述べる。
要するに、米軍どころか空港すらもなかったところに、戦後無理矢理に空港をつくり、それを名古屋空港であると強弁したのが河野金昇だったのではないか、という疑いがあるのだ。定期路線が開設された27年は全日空の前身である日ヘリができた年であり、飛行機時代の到来に、飛行場がないのはまずい、という事でさっとそれらしいものをつくり、そして全日空に名鉄が絡むことで全日空の拠点とするよう仕組んだのではないか。前にも書いたとおり、河野一郎と日ヘリの美土路は早稲田から朝日新聞という同じ経路を辿っており、河野金昇もまた早稲田出身で、これまた早稲田から東京朝日に入った中野正剛に私淑していたという。このあたりもいろいろ展開できるが、とりあえずはここで止めておく。なお、河野金昇は第2次鳩山内閣で運輸政務次官を務めており、その2年後に小牧空港に新ターミナルビルが完工している。
とにかくそんなごり押しを通すために、自衛隊の誘致が必要となり、その為に何としてもF86に続いてF-100も新三菱重工大江工場で作ってその拠点としての小牧(名古屋)空港の存在を確立する必要があったのだろう。しかし、それが岸に却下されてしまったために、戦略の変更が必要となった。そこで、ひとまずはロッキードF-104に直接決まってライセンス生産が川崎航空機にいくという事態を避ける必要があった。そこで、鳩山内閣の時に日ソ共同宣言に先だって訪ソした河野一郎によって帰国の話がまとまったのではないかと考えられる瀬島龍三を伊藤忠に入社させ、その伊藤忠、あるいは河野金昇の弟子である海部俊樹と同じ姓である海部八郎のいる日商によって、グラマン導入というワンクッションを入れることにしたのだろう。しかし、瀬島が伊藤忠に入社した二ヶ月後には、その無理に無理を重ねた反動か、河野金昇が昭和33年3月29日に48歳にしてこの世を去る。
河野金昇の死後1週間4月5日には防衛庁がグラマンの採用を決定し、その更に1週間後4月12日には国防会議もグラマン採用を決定する。防衛庁が先に採用決定というのは、おそらく、海原天皇とも呼ばれて防衛庁で絶大な権力を握っていたとされる、伊藤忠派の海原治が主導していたとみられる。本来ならば最初からロッキードに決めれば良いところを、防衛庁の事務方幹部主導でグラマンを選んだということにすれば、現場からの風当たりを政治家が引き受けることがなくなる、ということだったかも知れない。いずれにしても、この路線は河野金昇が生きていたら調整は難しかっただろうから、政治的には退場しか道はなかったのだろう。そしてここで死んだことで、その直後の5月22日の第28回衆議院議員選挙で金昇の妻孝子が弔い合戦で勝つことが出来、その後海部俊樹に引き継ぐというルートができることになる。この、話し合い解散と呼ばれた解散は、55年体制成立から長く選挙がなかったことから野党が早期解散を求め、自民党主流派も33年1月の選挙を主張していたが、大野・河野派が予算通過後の解散を主張したことから4月解散となった。1月に解散していれば、FXも、小牧空港ももっとこじれて膿を出さざるを得なくなり、その後のロッキード事件もまた違う様相になっていた可能性がある。その意味でも、金昇の死に時は年度末ぎりぎりのその時しかなかったと言えそう。命までも政争の道具にするとは、政治家とは本当に因果な商売だ。
この選挙が公示されて、投票10日前の5月12日に前年12月に松島基地で編成されたばかりの航空自衛隊第三航空団が小牧に入った。これも河野孝子の当選を後押ししたことだろう。6月に拡張工事が完了しているので、本来ならば拡張終了後に入るはずのところを、選挙にあわせて前倒ししたということだろう。瀬島ラインか海原ラインかはわからないが、このような自衛隊の政治利用は、基本的に許されてはならないことだろう。そんなことがあっての、その2年後の小牧空港での全日空DC-3と自衛隊F-86の衝突事故だということになる。本当に民間飛行場に自衛隊が入ったことが正しかったのか、というのは問われるべきだっただろうが、他の飛行場での軍用機利用が大きく問題となる中、この小牧ではずっと自衛隊と民間機の共用が続いたというのは、ある種異様な光景ですらある。なお、現在、共用とはいっても、基本的には県営空港で、滑走路だけの共用となっている。
少し長くなったので、とりあえずここまでとする。
参考文献
「航空機疑獄の全容-田中角栄を裁く」 日本共産党中央委員会出版局
「瀬島龍三 参謀の昭和史」 保阪正康 文芸春秋
「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 有馬哲夫 文芸春秋
「黒幕」 大下英治 だいわ文庫
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