ここで大伴家持についてみてみたい。大伴家持は、先に出た隼人征伐を主導した旅人の息子とされ、また万葉集の編纂者とも考えられている。家持をやかもちと読むのは非常に独特なので、その意味を考えてみると、アイヌ語で英雄叙事詩のことをユーカラといい、それが「やか」につながったのではないかと考えられる。それをのちに「いえ」と読むようになったのは、同じくアイヌ語で「話す」を意味する言葉がyeであることからきているのではないかと考えられる。万葉集が雄略天皇の歌から始まっていることからも、また家持自身も動乱の奈良期に何度も政治的危機に見舞われながらもしぶとく生き抜いた英雄的要素を持ちながらも万葉集に深く関与したことからも、ユーカラを名にするにふさわしい人物だったと言える。
家持は地方官として越中守を天平18年(746)から天平勝宝3年(751)にかけて務めるが、まさにその期間に起こったのが、前回、前々回書いた八幡神に関わる情勢の急展開となるのだが、大変興味深いことに、この越中にも著名な八幡がある。放生津八幡宮だ。現在の射水市にあるこの八幡宮は、家持が越中守になった天平18年に宇佐八幡を勧請したと伝わるが、みてきた通り、その時期に宇佐八幡がそれほどしっかりした地位を得ていたとは到底言い難い。そして、放生津八幡宮では、その名の通り放生会が行われているのだが、こちらは創建以来行われていると伝わり、それは旅人の隼人征伐の言い伝えと比較しても齟齬がない。元々は奈呉八幡宮と呼ばれており、嘉暦3年(1328)に放生津八幡宮となったという。奈呉の海というのは万葉集にも何度も取り上げられている重要なモチーフであるが、それでも放生津と名を変えたということは、いかにこの八幡宮にとって放生会が重要だったかを物語るものであり、放生会の始まりは、少なくとも宇佐八幡よりも放生津の方が早かったと考えるだけの十分な証拠だろう。放生会自体は仏教と関わりの深い行事であり、そして海産物の豊富な越中では、もしかしたら隼人征伐とは独立して放生会が行われていた可能性もある。そうなると、宇佐八幡の方で放生津八幡の放生会が欲しくて縁起を作り出したということになる。何故そのようなことをする必要があったのかはまた別に検討したい。
なお、家持は延暦4年(785)に没したが、陸奥按察使鎮守府将軍だったということで、死没地について平城京説と多賀城説がある。陸奥按察使鎮守府将軍になったのはその前年だが、そこでまた都ではよくわからないことが起こっていた。長岡京への遷都だ。それがいつ始まったのかはよくわからないのだが、とにかく家持が陸奥按察使鎮守府将軍に任命されている間に遷都が行われ、そしてそのまま家持は没した。その直後に長岡京造営責任者の藤原種継が暗殺され、家持は死後ながらもそれに連座して、埋葬を許されず、官籍からも除名されるという理解不能なほどに厳しい刑罰を受けている。