家持が都をさったことで、もはや敵らしい敵のいなくなった押勝の独裁的な政治が始まったが、そんな彼にとっても、天平宝宇4年(760)6月の光明皇太后の薨去はさすがに影を落としただろう。そのころ唐での安史の乱の発生の報を受け、押勝は新羅征討の準備に取り掛かっていた。光明皇太后の薨去でいったん白紙に戻ったが、まさにその翌5年正月に、藤原広嗣の乱のところで少し触れた藤原田麻呂が突然従五位下・礼部少輔として政治の表舞台に登場する。礼部というのは祭祀も管轄する治部の唐名で、ここからも彼と八幡とのつながりが読み取れる。同年11月に新羅征討のための節度使が設置されるとそこに名を連ね、新羅無礼の記事で初めて続日本紀に名を出す八幡の文脈を引き継ぐことにもなる。実際、翌6年11月には、新羅征討のため諸社に奉幣がおこなわれている。ただしこれに関する記事は託宣集には見当たらず、宇佐神宮がその対象であったかはわからないが、いずれにしてもそこに固有名詞が出てくるのは香椎宮だけであり、少なくとも新羅征討の文脈では仲哀天皇こと阿倍比羅夫が一番の神であったことが見て取れる。あるいはそのために田麻呂をはじめとした宇佐勢力が新羅征討に協力せず、それが結果的に中央のパワーバランスを変え同8年9月の恵美押勝の乱につながったと考えられるかもしれない。
恵美押勝の乱は、押勝の挙兵後、孝謙天皇は東大寺造寺使であった吉備真備を中衛大将として追討軍を指揮させた。造寺司というのは律令に載っていない令外官であるが、実際には大宝律令よりも前から設置されている歴史ある役職で、寺の建設の総責任者だと言って良い。律令制によって東大寺、そして国分寺を中心とした鎮護国家制度が整えられる中で、寺院への位田・封戸によって地方財政を確保しようという考えのもとでは、その寺院を建設する造寺司というのは地方財務局ともいえる存在であり、そうすると東大寺造寺司というのは国家の財務省に当たる存在だともいえる。つまり恵美押勝の乱とは、八幡神を軸にして荘園制度を押し進めようとした恵美押勝と、仏教寺院を拠点にして鎮護国家制度を整えようとした吉備真備の対立であったといえる。結果として吉備真備側が勝利を収め、宇佐の八幡神ではなく仏教が国家統治の軸となる考えであるということが定められたといえる。乱後の10月に淳仁天皇は廃位され、孝謙天皇が称徳天皇として重祚した。この対立軸はその後の宇佐八幡託宣事件につながってゆく。
なお、桓武天皇は平安遷都に先立って寺社建設を禁ずるなどの処置をとっており、仏教の都であった平城京を嫌って遷都を行ったと考えられる。神仏習合の原点は、この対立と遷都の理由に基づくものだといえよう。