天正十四年
正月十三日連歌。康之の句で宿の松が出ている。二月廿六日家康が氏政と会見のために駿河へ行く。卯月一日連歌。九日連歌ていしう代正佐発句。十一日羽柴筑前守妹家康へ御こし入候。この月は長澤普請の話が出てくるが、それは具体的な場所なのか、それとも家忠を長澤松平として日記の作者として固める、ということなのか。十九日「殿様ハいろいろ六ヶ敷儀申候間、事切候ハんかと御意候、さやう候ヘハ、信雄様失御面目候とひちかた彦三郎申候て、本田平八郎殿廿三日ニ御上候由候、」ということで、講和に無理難題を言われ、事切れも致し方なしと考えているが、信雄の顔を考えてほしいと言われた様子。この後五月中頃にかけてまで延々と祝言の話が続く。実際にあったことと言うよりもむしろこの日記の作者が何かいろいろ仕込んでいる最中なのではないかと疑われる。他でほとんど細かなことを記していない『家忠日記』が、この部分だけは異様に細かく記しており、筆者にとっての重要性が感じられるからだ。
六月廿七日連歌、家忠と竹備清善の句。七月も連歌関係の記事多数。十九日に家康眞田表働被仰候、駿府迄御出馬之由候、とのことだが、眞田表で駿府までという表現が地理的には余りすっきりしない。眞田の話はその後小田原征伐に直結することになるので、この後の展開は注目する必要がある。八月七日にその眞田に関して家康御馬先々御延引之由候との記事あり。八月十四日一日二百韻興行と言うことで家忠とていしゆ清善の句が載っている。八月廿二日家康様と敬称付きで駿府より浜松へ帰ったことを伝える。しばらく家康だったのに、眞田表で家康様に変わったことに注目。九月には、殿様、御屋敷様、濱松殿様などの表現になる。話をいくつかに分けて展開させている様子。廿六日に上洛が定まったということで、そこに向けていろいろ仕込んだようだ。それに絡んでか、この月も連歌が多い。
拾月は家康上洛。ここもいろいろ書かれているので、詳細に分析するといろいろなことが見えてきそうだが、とりあえず目立ったところだけ。上洛した廿日までは家康様となっており、一方秀吉御母大政所とあり、秀吉には敬称がついていない。上洛した晦日の記事では殿様、関白様、秀吉と言う使い分けがなされている。十一月に入ると、関白殿、殿様、家康、と表記が変わる。そのあたりで鯉三十本、十八本と大量に引っかかったようだ。ここで大量に『信長公記』につながる方へ引き込み、これが歴史の大きな転換点となった可能性がある。十二月十八日連歌、発句は正佐。一段落して日常に戻ったということか。廿八日連歌は康定名。
天正十五年
正月十三日連歌、また康定名義。二月四日また家康様となる。三月十八日信州眞田、小笠原関白様御異見にて出仕候、とのこと。四月は雨が多い。何もない時は天気を記して日々書いているというアリバイづくりをしているよう。五月は十七日と廿五日に連歌、家忠とていしゆ名の句。六月十九日正佐発句の連歌。廿三日発句松波 重隆の連歌。五月廿日から六月十二日まで長きに亘って二俣小笠原越中守が滞在した模様。七月七日詠三首、十二日旅衣後、廿四日貳両金子の大書。廿九日家康様御上洛として岡崎迄着候とあった後八月五日まで原文闕失となる。八月八日家忠発句の連歌。廿一日正佐発句の連歌。九月にはなにやら値段表のようなものがついている。廿一日正佐発句の連歌。十二月七、八日鯉七十五本、六十五本と大漁。廿三日にも鯉五十本。
この年は収穫の年か、余り大きな動きは見られなかった。