さて、河野一郎が左藤防衛庁長官にグラマン白紙撤回の要請を出してからの話に戻る。すでに書いたとおり、これは河野一郎にとって、決して予想通りの展開ではなく、むしろロッキードコンステレーション機の事故に押し流される形での要請であったと言える。そこからいかに巻き返したかが、河野一郎という政治家の真骨頂であったと言ってもよいだろう。もっとも、FXはともかくとして、河野は政治家としてはこの問題をうまく処理できなかったので、総理への道が閉ざされたのだとも言えそうだ。
まず、このときの政治状況としては、4月25日に与野党間で解散の日取りやその手順が決められた上でのいわゆる話し合い解散となり、5月22日に第28回衆議院選挙が行われた。この選挙は、自民党の内部抗争が激しく展開されたものとなった。岸、佐藤の主流派と、大野、河野の党人派が手を結び、池田勇人の宏地会を完全に締め上げ、宏地会からは多くが非公認で戦うことになったと言う。これは、党人派が佐藤、池田の官僚派を分断しようと企んだものであるといえ、これによって池田と党人派との対立は抜き差しならないものとなった。結局この選挙では宏地会から派閥としては34人だが、宏地会系無所属を含めると50人が当選し、岸派に次ぐ第二派閥として圧倒的な存在感を残したとされる。その後の内閣改造で、池田はまさにFXを担当する防衛大臣の、いわば貧乏くじを引かされそうになったが、無任所大臣としてこれを逃れ、参議院から左藤義詮が防衛大臣となった。
そんな、河野が党人派として官僚派に追い込みをかけている、という状態で、8月に事故からグラマン撤回要請へと流れたことになる。その後、造船疑獄などにも火付け役として関わった高利貸しの森脇将光の森脇メモが出てきて、防衛省内部に疑惑があると言うことが衆議院の決算委員会や、児玉誉士夫の雑誌インタビューなどから噴出し、一方で岸内閣は突然警察官職務執行法の改正を議会に上程し、野党が猛反発して議会は紛糾した。そのまま年末を迎え、無任所大臣池田勇人、経済企画庁及び科学技術庁長官三木武夫、そして文部大臣灘尾弘吉の3人が12月31日に同時に辞表を提出するという事態になった。
年明け後も政争はやまず、岸は何とか安保の改正だけは成し遂げたいとして、大野や河野と誓約がなされ、岸の後は大野、その後に河野、そして佐藤という順で禅譲が行われるという約束を交わしたとされる。それを受けて岸は総裁に再選され、第2次岸内閣は小幅改造を行い、防衛大臣も左藤から鉄道省で佐藤栄作のすぐ後に事務次官となった佐藤子飼いの伊能繁二郎へと変わった。このあたり、党人派がいかに官僚派にこの難所の防衛大臣を引き受けさせるかという事に集中していたかがよくわかる。
その後は安全保障条約改定がしばらく中心テーマとなっており、政局自体は凪いでいた。おそらくそんな中で永野兄弟が関わって全日空の設立、あるいは名鉄の資本参加の話などが進んだのではないかと考えられる。2月3日にはアメリカン航空のロッキードエレクトラがニューヨーク、イーストリバーに墜落、65人が犠牲となった。それに関わるかどうかわからないが、永野護は2月17日に不信任を突きつけられ。それは否決されたものの、4月24日に運輸大臣を辞任している。なお、衆議院本会議で不信任決議案の趣旨説明をしたのは、福岡県選出の社会党議員河野正であった。運輸大臣辞任の理由は明かではないが、4月15日にはアメリカの国務大臣ジョン・フォスター・ダレスが病気で辞任しており、それは安全保障政策の方向、そしてそれに関わる航空政策にも影響し、永野兄弟にとっての大きな後ろ盾がいなくなったことを意味したのかも知れない。ダレスは5月24日に亡くなった。いずれにしても、この時期に急速に日本政治の国際情勢との連動性が強まっていることがわかる。海外の航空事故が国内の政局につながるというのは決して健全なこととは思えない。そんなことがロッキード事件を経由して今にまで続いているかと思うと、ぞっとする。
6月2日に第5回参議院選挙があり、自民党は10議席増やして勝利、そして内閣改造となった。ここで、河野は幹事長を望んでいたとされるが、岸は入閣を要請し、河野は結局それを断って閣外へ去った。これは、おそらくだが、岸は防衛大臣への就任を要請したが、河野はそれには乗れず、逃げた、という事ではないかと考えられる。自分で白紙撤回の要請をしておきながら、その責任もとらず逃げ出すとは、政治家の風上にも置けない人物であったと言える。12日には、幹事長起用しない岸内閣には協力しない、とまで啖呵を切る。これによって1月の誓約も無効になり、大野、河野共に総理への道が閉ざされたことになる。
結局内閣改造の前の6月15日に国防会議でグラマンの白紙撤回が決まり、その後18日に内閣改造で赤城宗徳が防衛大臣に就任した。8月8日に源田実を団長とするFXの第3次調査団が訪米した。ちょうどこの頃台湾をエレン台風が襲い、それによる大洪水で1000人前後が亡くなったとされる。偶然だが、源田は太平洋戦争中に台湾沖航空戦の作戦を立案し、大本営の海軍陸軍の兼任参謀としてその戦果を過大報告し、それはその後の戦略策定に大きな影響を与えた。また、参謀本部、そして軍令部では伊藤忠に入った瀬島龍三と共に働いたことになる。このあたり、本当に陸海兼任ということがあったかを含めて怪しいところがあるように感じるが、何らかのつながりはあったのだろう。
9月24日、河野の選挙区にある藤沢飛行場に、CIAのロッキードU-2偵察機が不時着した。それは秘密にされ、12月になって国会で取り上げられるまで報道もほとんどされなかった。藤沢と厚木はそれほど離れておらず、米軍管轄の厚木には着陸できない何らかの理由があった可能性がある。元々厚木基地所属の機体だとされるが、それはCIAが米軍とは別に独自の行動をとっていたことを示すのかも知れない。そして、それは2日後に和歌山に上陸する伊勢湾台風の調査のためだったともいわれ、そしてその伊勢湾台風によって名古屋地区が大被害を受け、復興事業で名鉄と小牧空港の整備が大いに進んだ、というのは非常に気になる。元々強い台風だったとは言え、強さ、あるいは方向に関して何らかの実験的措置がなされたという陰謀論的な考えにも結びつきそうな黒いジェット機事件であった。尤も、現実的には、米軍基地に入ると持ち出しにくいデータを藤沢で下ろした、という可能性の方が高そうではある。いずれにしても、米軍とCIAとの間で何か共有されていない情報がこの時点で発生したことになる。なお、そんなことが影響したか、このU-2偵察機は翌1960年5月1日にソ連に撃墜されるU-2事件を引き起こし、米ロの冷戦が急速に進むきっかけとなっている。
結局11月6日に源田調査隊の報告を元に国防会議でロッキードF-104Cの改良型F-104Jが次期FXとして決定された。主契約者が新三菱重工、従契約者が川崎航空機工業、単価は115万ドル(4億1400万円)以下とされ、昭和36年3月に180機の生産契約が行われた。ただ、総経費は968億円とされ、そのうち7500万ドル(270億円)をアメリカ政府による資金援助(無償供与)を受けて配備される事となったというが、援助分を除けば最終調達数量230機で計算しても単価枠内には収まっていないようだ。いずれにしても、昭和42年度までに計230機が配備され、これで第1次FXの配備は完了となった。
参考文献
「航空機疑獄の全容-田中角栄を裁く」 日本共産党中央委員会出版局
「瀬島龍三 参謀の昭和史」 保阪正康 文芸春秋
「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 有馬哲夫 文芸春秋
「黒幕」 大下英治 だいわ文庫
Wikipedia 関連ページ
*田中角栄の逮捕日も過ぎたという事もあり、また、ちょうど少し一段落のような感じなので、しばらく冷却期間をおこうと思います。ご愛顧、どうもありがとうございました。