ねえ、きみ、ぼくたちの頭の中身は言葉のガラクタでいっぱいだろ?
いや、もうしわけないね、きみの頭の中身まで勝手に決めつけたりして。つまりぼくに言えるのは本当はこうだ。ぼくの頭の中身ときたら、まったくガラクタでいっぱいなのさ。
でもここはあえて、きみの頭の中は丸見えだよって振りをして、自分語りならぬお前語りをさせてもらうことにするよ。
そうさ、そのガラクタの山に積まれてるのは、何も言葉ばかりってわけじゃない。色とりどりの思い出の切れ端もあれば、色も失せて砕け散った欲望の残骸もある、そして果たされることもなくしぼんでしまった明日への希望の抜け殻に至るまで、きみという人格というものを作り上げることになったありとあらゆる印象が刻まれた神経回路の網の目が、そこでは日々発酵を続けながら、とぐろを巻いてうごめいているんだ。
しかもだよ、きみはよりによって、そのガラクタの山が作り上げた人格とか呼ばれる架空の存在を、自分そのものだと思い込んで生きてるんだろ?
おかしな話じゃないか。
海辺で暮らして貝を毎日食べ続けて、貝塚を作るに至った村人たちが、その貝塚こそが自分たちの村なんだと、そんな勘違いをするわけがあろうかね?
ぼくたちは結局、脳みそが大きくなりすぎて、外の世界よりも頭の中身こそが本当の世界なんだと、そんな途方もない勘違いをしているだけの、おばかな猿の末裔ってことになるんだろうかね?
むろんぼくらは、認識の牢獄に閉じ込められた孤独な魂の亡霊船団にすぎないんだから、外側に世界があるなんて思うことこそが、ばかげた錯覚にすぎないかもしれないさ。それならそれでよしとして、まずは心の世界のガラクタを、少しは片づけることにして、大ナタを振るいまくって、いくらかは見通しのよくなるところまで、減量したくもなるってもんじゃないか。
柔らかすぎてへなちょこの自分の体を守るために身につけたはずの自慢の殻が、大きく重くなりすぎて、見動きもできなくなったカタツムリ並みの人生におさらばしたいなら、こんなに肥大した自我を背中に背負ったままじゃいられない。
さあさ、まずは言葉のガラクタの山の解体工事に取りかかるとしようか。
* * *
けれどもきみは、複雑に絡み合い、よじれ合い、堅く結びつけられているかと思えば、足場にもできないような脆い構造でしかない、言葉のレンガとなってごろごろと行く手をはばむそのガラクタ山脈の前で、途方に暮れて天を仰ぐことになる。
心の素子が作り上げた幻の巨塊を、理性的な方法論で解体しようと言ったって、そいつは至難の技というものだ。
となればきみがまずなすべきことは、認識の粒度をきめ細やかにして、心の素子の性質を見極めることだ。
認識を司るきみの神経回路が、自分の体に起こっている今この瞬間の感覚を、一つずつ落ち着いて、情動の影響を受けずに感知することができるようになれば、やがてきみは無数の心の素子が形を変えて、相互の間隔を自然に整えて、見事に整列をして、プリズムを作り出し、スクリーンを組み上げる瞬間を経験することになる。
プリズムとスクリーンの粒度を得たきみの認識機構は、無限の色彩の鮮やかなスペクトルを世界全体に投影する。
そのときの自分を想像してくれたまえ。きみの頭の中で、蜘蛛の巣が絡まり、ホコリにまみれていたガラクタの山は、世界を照らし出して反射する虹色の光に染まって、ついに浄化のプロセスを開始するのだ。
虹色に輝く世界で、虹の体を持つに至ったきみという架空の人格は、夜明けとともにかき消されるぬばたまの夜闇のように、重苦しいガラクタの鎧をやがて脱ぎ捨てて、絶対的真空の背景輻射の中に立ち、苦しみも歓びも、そして自分さえも忘れて、宇宙そのものの意識を思い出してゆく。
そこには言葉はなく、記憶もなく、部分もなく、全体もなく、ただ永遠にざわめく静けさだけが虚空の隅々にまで浸透し、無限の彼方に至るまでも波打ちながら、一人ぼっちの隠れんぼを続けることになるのだ。
* * *
でもきみ、それは今はまだ、言葉が紡ぐ幻にすぎないんだ。
ぼくたちが頭の中に抱えるガラクタ山脈は、そんなに簡単には消え失せてくれないからね。
だから一歩一歩、歩いてゆこうじゃないか。ガラクタの山並みの遥か向こうに、認識の虹がかかる日を夢見てさ。
ぼくらにはたどり着けないかもしれないけれど、誰かはこの遺志を受け継いでくれるはずというものさ。行けるところまで行って、ぼくらが見た景色を伝えることにこそ意味があるんだからね。
つまりぼくらの人生は、自分を忘れた神々の、壮大な伝言ゲームだってことなんだよ。