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人生の分かれ道で決断に迷ったとき、二つの選択肢について十分に検討したのちに、それでもどちらとも決めかねるのならば、いっそコインを投げて決めてしまえばいい。
昔そういう文章を読んで「なるほどな」と思ったことがある。
脳内の神経ネットワークが電気的に、化学的に、一瞬一瞬創り上げる曖昧模糊としたホワイトノイズの塊を切り裂いて開きにして、天日干しにするか冷燻にするかが問題だとして、とにかくどちらかを選んで一旦固定してしまわなければならないときがあるということだ。
何かを成し遂げようと思うなら優柔不断は禁物。
時計の針がかちこちかちこちと一秒一秒を刻んでいく。
その針が一千八秒に達するまでには自分の心を決めたいものじゃないか。
時代の流れが手に負えないほどの急流になってしまって、もう本当に少しばかり先に進んでしまえば、あとはブラックホールの久遠の静止状態に落ち込んでいくだけの華厳の滝へと真っ逆さまで、となれば、その前に火急的速やかに瞬きをする間も惜しんで即刻決断をしなければならないってこと。
さは言いながら、あわてる乞食はもらいも少なし、とすれば少彦名命にでも一心にお願いさせてもらうことにして、少しばかりは常世の恵みもいただきたいというがさつで我欲に満ちた魂は、さして大きくもない神経ネットワークをしゅばっと投網と投げ出して、ささっと掬えばない知恵を絞り、お次はその絞り粕をぱぱっと一夜漬けにいたしまして、てんやわんやの大慌てを演じながら、のんびりゆったり永遠の長湯を楽しめばいいという次第でございます。
それで、ぼくは思ったんだよね。
アドセンスで広告を載せて、閲覧数をがっしり稼げれば、がっぽり収入だって得られるかもしれない。
だけど、それって結局は千九百四十九年のゴールドラッシュみたいな話で、金を掘り当てて、大金持ちになれる人なんてほんのひと握りに決まってる。
西の荒野に夢を求めて旅立つことが悪いことだなんて、誰にも言えないに決まってるけれど、夢は夢のままにしておいて、自分が授かった菜園を丁寧にしっかりときめ細やかに世話をして、けして大きな菜園じゃないから、それほどたくさんの収穫は望めないにしても、自分の器の大きさに合わせてじっくりと手間ひまかけて仕事をする、そういう人生だって、そりゃあ確かにまったく地味なものかもしれないけれど、そうつまり、地味に生きるのだって実に素晴らしいことじゃないですか。
誰にも気づかれることもなく、道端でひっそりとさく小さな野の花に、ふと目を落として、その美しさに涙を流したことはありませんか。
ぼくはそういうことは、残念ながら一度もないんだけれど、今これを書きながら胸の奥でつかえている何かがほんのちょっとだけ溶けて流れて動き出して、涙は出ないな、でも確かにそこに柔らかくて暖かくて握れば潰れてしまいそうな生まれた時のままの脈動が、美しさと哀しさを重ねあわせて世界を揺るがしているのを感じるんです、指先から力が抜けてしまうんです。
センチメンタルで甘ったるいお涙頂戴のドラマの話をしてるわけじゃありません。
つまりは夢を見続ければいいってことなんです。
ぼくたちの人生なんて、宇宙の138億年の歴史からしたら、ほんの胡蝶の夢にすぎないものじゃないですか。
そしてその夢が、もういい加減「オレは菜園の土作りをするぞ」という冷燻に仕立て上げたいものになりつつあるというのに、心の奥底のどろどろととぐろを巻いて流れ続ける灼熱のマグマが、西の荒野での天日干しを諦めきれないと叫び続けるときには、仕方がない、コインでも投げて決めますか。
と考えてはみるものの、一人異国の安宿で、コインをぽーんと投げるのも、どうにも今ひとつ芸がないとしか思えません。
そこで、わたしは考えましたよ。
わたしの代わりにみなさんがぽーんとコインを投げてみてください。
ぼくがここに置いた空き缶に、ちゃりーんとそのコインが入ったならば、こちらの菜園に腰を落ち着けて、土作りに励むことにしますから。
そしていつの日にか黒々と肥沃になった大地から、太く力強い幹から無数の枝を天に伸ばし、緑の言の葉をわさわさと茂らせた大樹が育ってゆく様を、夢見て日々を生きることにしますから。
[初稿 2018.10.09 ラオス、ヴィエンチャン] (初出は https://note.mu/tosibuu/n/ne27941ee69ef)
[改稿 2018.12.01 西インド、プシュカル]
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