私は、職場でマーケティングチームをまとめる役割を果たしている。いわばマネージャーというポジションだ。
チームマネージメントができているか?と聞かれたら自信はない。
マーケティング実務や施策を自分自身で動かしていくことは難なく出来る。だが、教育を行い各メンバーが主体的に動いてもらえるようなチーム体制を構築することが出来ていないのが現状である。(私の業務時間が増えるだけの毎日。。。)
メンバー達のキャリアプランを考え、それぞれと話し合って各メンバーに仕事を振っているつもりだが、任せられた業務への責任(数字達成への意識)や自身の意見などがあまり無く、結局は私が実務をこなしてしまっている負のループを断ち切れないでいる。
そんなことをしていた矢先に、私の上司から「もっと人を使いなさい」という指摘を受けた。
「人を使う」
私が28年間生きてきた中で、口に出して発したことがない言葉だ。
そもそも「人を使う」という意識が私にはなかった。むしろ「協力してもらっている」「手伝ってもらっている」といった互助意識の方が強かったのかもしれない。要するにマネージメントという意識が足りていなかったのかもしれない。
今だに「人を使う」という言葉に慣れない。
先週の記事でも述べた通り、私の年齢は28歳(2020年11月現在)であり、ゆとり教育真っ只中で育ってきた世代である。
ゆとり教育世代の私たちにとっては、「"平等"に与え"公平"に評価する」ことが当たり前であった。例えばクラス対抗の球技大会で一等賞が存在せず、試合の勝ち負けはあるにしろ、「全チームが健闘したよね!皆それぞれ良いプレーしてたね!」といった具合になぁなぁに終わらせてしまうようなことがあったのを記憶している。(各生徒の個性を重んじる教育方針であった。)
話が飛躍してしまうが、日本国憲法にもある通り、全人民が"法の下で平等"でなくてはならない。これは民主主義の鉄則である。同時にビジネス界は資本主義であり、"平等"に機会は与えるが、勝ち負けが存在するのだから"公平性"など有り得ない。
そもそもスタートラインが違う人に対して"平等"に機会を与えても、その差は広がるばかりばかりである。
ビジネス界では、機会は"平等"に与られるかもしれないが、成果主義なので成果を上げた者だけが上にのし上がる。そして上下関係が生まれる。この上下関係を組織運営のための指示系統だと言う人もいるかもしれないが、企業内における"隠れ階層社会"となってしまっているのではと思う。
だから、部下や契約・派遣社員、パートやアルバイトを「使う」という発想が生まれるのではないか。
「"平等"に与え"公平"に評価する」という教育方針のもと学生生活を送っていた私にとっては、"隠れ階層社会"となってしまった企業が乱立するビジネス界に慣れないのかもしれない。
だから、「人を使う」という言葉にとてつもない違和感を覚えたのかもしれない。
私はこの場で宣言したい。
主従・上下関係を彷彿とさせる「人を使う」という言葉は、この先も一生使わないということを。
「"平等"に任せ、"公平"に評価する」
この想いを胸に今後も過ごしていこう。
(今回の記事、自分の中でも整理出来ていなかったのか、まとまりのない内容になってしまった、、、反省。。。)