私は中学時代、ずっとバスケ部でした。中学の思い出といえばバスケです。それ以外の思い出はありません。(恋もしなかった)
しかし強かったわけではなく、むしろ弱かったです。地区大会の予選落ち。新潟は強いチームが多いと思われがちですが、そうでもない学校に敗退しました。
今日はそんな私の、中学バスケ部の最後の試合について書こうと思います。さわやかでもなんでもない、青春の日々の話。
その日は私は一応スタメンだった。負ければもう引退という地区予選の一試合、実力的には勝っても負けてもおかしくない相手だ。ベンチには試合に出場できない仲間だっていっぱいいる。
試合はお互いに大きな差を付けられることもなく、一進一退の攻防を繰り広げた。私のポジションはゴール下。スクリーンアウト、リバウンド、堅実なプレイを積み重ねる。
いつもはスタメンのメンバーで、ベンチから声援を送るものもいる。ケガで出場できない奴らだ。私達は強くないチームなりに、毎日ヘトヘトになるまで練習に明け暮れてきた。真面目に練習した、という点ではどのチームにだって負けない自信があった。来る日も来る日も三年間、ひたすらバスケをやり続けていたんだ。監督は厳しい。体罰に今ほどうるさくない時代だったので、ほうきの柄で頭を叩かれるなんて日常茶飯事だった。(ちなみに人の頭は結構な力で叩かれると眼の前がフラッシュする。主観的に白い光が見えるのだ。漫画で星が飛ぶような表現があるがあながち外れじゃない)。
それは臆面もなく言うならば、まごうことなき青春だった。泥臭くて華麗なところなど無い、中学生の部活動の青春だ。あの頃、バスケットは私にとってすべてだった。雨の日も風の日も、ひたすら地味な練習に明け暮れていた。
私たちのチームは怪我に悩まされた。この試合でも、センター、ガードというチームの大黒柱の二人を怪我により欠いていた。それでも負ける訳にはいかない。負けたら私たちの青春はそこで終わりなのだ。
試合は終盤に差し掛かる。代わりが居ないのでみんな疲れが見え始める。相変わらず点差は開かず、どちらが勝ってもおかしくない状態を維持していた。
やがて終盤に差し掛かった。私たちのチームがわずかにリードしている。みんな体力の限界だ。私も、とっくに限界を超えていた。
私たちのオフェンス。放たれたシュートは外れ、リバウンドは相手チームに渡った。相手チームは速攻をしかけ、仲間は一気にディフェンス体制に入る。
しかし私の体力は限界だった。もうまったく走れない。苦しくて仕方がない。
だから、私はディフェンスに走らなかった。ベンチからは監督が大声で怒鳴る声が聞こえる。ディフェンス!
でも限界だ。私は走らなかった。走れないフリをした。脚を故障したフリをして、ディフェンスに入らなかった。誓って言うが無意識だった。無意識に、私は苦しさから逃げてしまったのだ。
私はベンチの2年生の後輩とチェンジした。床にひいたタオルに寝転がりながら、私はじわっとした嫌な感情に囚われていた。私は逃げてしまった。
そして試合は終了した。わずか1点差で、私たちの負けだった。
試合後のミーティング。みんな泣いていた。私も泣いていた。最低の気分で、泣いていた。私が抜けなければ、この試合勝てたんじゃなかったか?
「みんなよく頑張った。10点差以内は監督の責任だ」
監督がそう言った。いつもは鬼のように厳しい監督が、静かに、そう言った。けしてこんなセリフを言うような人じゃないのに。
かれこれ20年前の話で、今は私も立派なオトナだ。なので私の中で折り合いはついている。どのみち、怪我も多くそれほど強いチームというわけではなかった。あのまま勝ち進むことは難しかっただろう。それに何にせよ、中学の部活動の話だ。
しかしあの頃の私は心から打ちひしがれていた。私は一人、仲間を裏切ってしまったのだ。その責任を誰にも言えず懊悩していた。ひどく苦しい罪悪感を抱えていた。バスケは私の全てだった。中学時代の、ほぼそのまま全てだったのだ。
あれほど純粋に何かに打ち込んで、あれほど見事に何者にもなれなくて、あれほどとめどなく涙が溢れ、あれほど真剣に悩み抜く。私の人生でもう二度と訪れることはないだろう。
オチも何もなく、わかりやすい救いもない。そしてさわやかでもなんでもない、青春の日々の話。