日本語は敬称が非常に豊富な言語ではないでしょうか。
陛下・殿下・閣下・猊下・先生など、相手の地位や身分、職業などによって使い分けるものがあります。これ以外にも会社の役職(社長・専務・部長など)や軍隊の階級(少尉・軍曹など)、貴族の爵位(公爵・侯爵など)も同じように敬称として使われます。
この手の単語はどこの国にもあるのかもしれませんが、上に挙げた全てが「名前+敬称」という形でも使えるし、敬称単独でも使えて、しかも、偉くなればなるほど名前なしの敬称単独で呼ばれるようになるのが日本語の特徴ではないかと思います。
さて、もっと基本的な敬称となると、まず「様」と「殿」でしょう。で、そして、「様」が少し砕けて「さん」になり、「さん」がさらに砕けて「ちゃん」になったのではないかと思われます。
ひょっとしたら「殿」が少し砕けて「どん」になったのかもしれません。ただ、「○○どん」という呼び方はあくまで方言か(笑)。
方言と言えば、大阪弁では「さん」「ちゃん」に加えて「はん」「やん」というのがあります。
「さん」と「ちゃん」の関係がちょうど「はん」と「やん」の関係で、「はん」が少し丁寧な感じがするのに対して「やん」には親しみが込められています。
で、「さん」「ちゃん」もちゃんと使いますので、「はん」と「やん」の分だけ関西では敬称が豊富になった計算です。
ところで、私はこの「はん」と「さん」はその時の気分で使い分ければ良い、ぐらいの認識でいたのですが、どうもそれは間違っていたようです。
松尾貴史さんが twitter で呟いておられるのを読んで初めて知ったのですが、この両者にはきっちりとした使い分けがあったのです。
曰く、名前の最後の文字がイ段、ウ段、及び「ン」の場合は「○○さん」、それ以外の場合は「〇〇はん」です。
なるほど、そう言われてみると確かにそうです。
大阪には「いとはん」「こいさん」という言葉がありますが、「こいはん」とは決して言いません。ちなみに「いとさん」はあまり言いませんが、まあ、言わないでもありません。多分「さん」のほうは幾分融通が利くと言うか、汎用性があるのでししょう。
「いとはん」の「いと」は「いとけない」または「いとしい」から来たものであると考えられており、それに敬称「はん」がついて「お嬢さん」という意味になります。
3人姉妹の場合は上から「姉いとはん、中いとはん、小いとはん」となり、その「こいと」を略したものが「こいさん」で、これは「末のお嬢さん」の意味です。ここでも確かに「こいとはん」が「こいはん」にはならず「こいさん」になっていて、名前の末尾がイ段の場合は「さん」という松尾説を裏付けています。
また「いとはん」とは別に「とうさん」という言い方もあります(私は辛うじてウチの父方の親戚が使っていたのを聞いたことがあります)。これは「お父さん」の意味ではなく「いとはん」と同じ意味です。そして、ここでもウ段の場合は「さん」というルールに従っています。
「旦那さん」を略して「だんさん」とは言いますが、「だんはん」とは言いません。「奥さん」とは言いますが「奥はん」とは言いません。坊主(僧職)は「ぼんさん」であり「ぼんはん」とは言いません。
歴史的な大阪弁だけではなく今普通に使われているものでも、「おばはん」とは言いますが「おじはん」とは言いません。「おばあはん」とは言いますが「おじいはん」とは言いません。
いやあ、驚きました。関西で生まれ育った関西人でありながら、私はこんなルールが成立していることには全く気づいていませんでした。
しかし、全てがこのルールに則っているかと言うと、決してそうではありません。既にこの「末尾がイ段、ウ段、及びンの場合は○○さん」というルールを堂々と踏み外して流通している表現が出てきているのです。
例えば京阪電車のCMでマスコットガールとして登場するのが「おけいはん」。今はもう7代目ですかね。これが初代からずっと「おけいはん」です。もっとも「おけいさん」では「京阪」との語呂合わせにならないから仕方がないのですが…。
そしてサントリーの日本茶「伊右衛門」の3年ぐらい前までやっていた時代劇CMシリーズで、宮沢りえが本木雅弘に呼びかけるときは常に「伊右衛門はん」でした──あれも本来であれば「いえもんさん」のはずです。
言葉というものはいつも変遷し、言葉のルールというものは常になにがしか崩れて行く傾向にあります。
「いとはん」「こいさん」などという言葉は今やほとんど使われなくなりました。「おけいはん」「伊右衛門はん」の類が跋扈すれば、いずれこんなルールのことは忘れられてしまうのかもしれません。
せめて完全に忘れ去られる前にここに記しておこうと思った次第です。
【追記】 以前この文章を自分のホームページに掲載した際に、お読みいただいた方からメールをいただきました。いくつか「なるほど」と思う点があったので、書き足しておきます。
まず、私が松尾貴史さんの twitter で知ったと書いている「さん」と「はん」の使い分けルールですが、これはメールをくださった方の記憶によると桂米朝さんの著書に載っていたとのこと。ただし、出典までは確かめられていないので、本当にそうかどうかは分かりません。
それから、この方によると「おけいはん」には違和感はない、何故なら音としては「おけーはん(おけえはん)」になるから、とのこと。
なるほどそれは確かにそうですね。表記は「エイ」でも日本語に[ei]の音がないことは以前私も書いています(「英語にエイあり、日本語にエイなし」)。表記上はイ段で終わっていても実際の音はエーという長音なので「こいはん」ほどの違和感はないということです。
同じように「御寮はん」にも抵抗がない、何故なら実際の発音は「ごりょおはん」になっているから、とのこと。そうですね、これも表記上はオウなのだけれど、発音上は長音であるという例です。いや、と言うよりも、大阪弁の場合はまさに「ごりょーはん」ではなく「ごりょおはん」という発音になっています。
うーむ、これも確かに関西弁をよーくご存知の方ならではの指摘です。
こういうつまらないことでも、こうやって Web 上に残しておくと、何年何ヶ月か経ってからでもこのように補足や訂正、新説などのお便りをいただくことがあります。あー、私以外にもこういうしょーむないこと考えてる人がいるのかと思うと、心温まる気がします(笑)
今回いただいたメールのタイトルがまさに「たわいないこと」でした。そう、「些細なことの中に真実がある(こともある)」──これは私が ALiS とは別にやっているブログのサブタイトルです。
(以上は2010年4月以降、自分のホームページに掲載してあった文章を再度推敲したものです)