急激に暖かくなってきましたね。今日は朝起きてすぐコンビニへ出かけたんですが、それぐらいでも外気に蒸されて汗が滲みました。今年は平年よりも暖かい気候だそうですが、湿気が増えてきたことで更に蒸し暑く感じるようになりましたね。
気温の変化が激しい時期の世間話というと「今日は○○度か、暑い/寒いですね」というものが会話の入り口として採用されがちです。そう言われると、そうですね、と私も合わせるんですが……。頭の中では常にこう考えてしまいます。○○度って『暑い/寒いなぁ』と思うべき気温なの?
また、急に暑くなれば今のように「暑いなぁ」と思います。が、いよいよ暑い日が続くようになると、今度は「今日は特に暑いね」とか言われても、よく分からない。
気温の数値を見ても暑さ寒さの感覚とつながらない。そして、恐らく数値化できていないために感覚の比較も苦手なんでしょう。もちろん暑さ寒さの感覚には、気温だけでなく湿度や活動量なんかも、そして個々人の感じ方の違いもあるんですが、それでも世の中の人に比べて私はその感覚の繋がりが薄いように思います。これはずっと昔からのことです。幼稚園に通っていた頃、遠足の当日に親がニュースで気温を見て、今日は暑そうだねと言うのを聞いた時に思ったことと、全く同じことを今でも思っているんです。三つ子の温度音痴、このまま死ぬまで治らないんでしょうか。
温度以外にも、数や量についてボンヤリとした認識しか持たない、程度感覚(?)に乏しい人生を送ってきた気がします。バイト先で「昨日は忙しかった?」と同僚に聞かれて困ったり。まず普段の平均が分からないし、それと比べて昨日がどうだったかも分からない。忙しかったような、そうでもないような。ある意味では真面目に考え過ぎているのかもしれません。感覚的に答えれば良いじゃん、とは自分でも思うんですが、ちょっと考えた末に結局「それなりですね」みたいな無意味な答えをしてしまいました。
単に、曖昧な部分に折り合いを付けられない優柔不断さなのかもしれません。いずれにせよ、そうして評価を放棄してしまう性格は私の生き方に大きな影響を及ぼしている気がします。例えば「今日は忙しい日だった」という判断をすれば、忙しいという感覚が記憶に残って、あの日は忙しかったと後から思い返せます。それをしないわけですから、記憶に残らないうちにリアルタイムの感覚も過ぎ去ってしまう。「あの日はどうだった」と形容できない日のことなんて簡単に忘れてしまいます。
そういうことで、私は昔のことをあんまり覚えていないタイプなんですよね。自分が何を考え、何して生きてきたのかよく分かりません。過去の蓄積がないカラッポ人間であることへの焦燥感を流石に感じてきて、ここ数ヶ月はローカルのメモアプリ上で簡単な日記を付けています。ここで日記(日記かこれ?)を書くのも、人に読ませる体で言語化することでさらに客観的な記憶を残そう、という目論見です。