人種差別というのは、社会の和を乱す、許されざる言動です。単純な憎悪に駆られているそれを除外したとしても、基本的に人種差別主義者というのは論理的にも破綻していると思います。ある集団の多くが○○であるという主張と、ある集団のある個人は○○であるという、互換性の無い主張を区別できていないわけですから。それぞれの真偽以前の問題です。社会的コストなどを持ち出してそれを正当化することは(価値観の問題で、私には許容できませんが)可能かもしれません。が、人種差別主義者の大半はその正当化を特定の人種にのみ行ってしまうものでしょう。
差別が糾弾され、差別者の社会的地位が失墜する社会においては、ちょっと知恵のある差別者は差別的なことを直接には言いません。どうするかというと、一つは犬笛というテクニックを使うわけです。差別的な思考を事前に共有していない限り、そこに差別を見いだせないはずの発言をするのです。
リンク先の例でいうと、特定の候補者が黒人であることを強調するために、直接的に「黒人」と呼ぶことは避けて「ラッパー」という表現を使う、というようなものです。差別主義者はこれを聞いて「黒人」を揶揄しているという元の意味をデコードできます。あるいは犬笛という概念を知っていればその意図を読み取ることが可能でしょうが、「『ラッパー』というのは『黒人』であることを揶揄した表現だ」と指摘することは、なかなか苦しいはずです。「黒人=ラッパーという偏見を持ってるのはそっちじゃないですか?」と返されたら終わりですからね。
これはまだ分かりやすい例で、人間の理解能力をもってすれば「私たち」「普通」「愛」みたいな普遍的に見える単語にすら犬笛を仕込むことが可能でしょう。それぞれ「○○人」「○○人であること」「××人をコミュニティから排除して○○人コミュニティを『護る』こと」を意味しているかもしれないわけです。ここまで来ると、流石に聴衆全員に伝わるとは思えませんが。ただ、もはや外部から真の意図を指摘して正すことは叶わないでしょう。「あなたの言う『愛』は『……』という意味でしょう」という指摘は、仮にそれが正しかろうととんでもない言いがかりにしか見えません。
一度その背景にある価値観が人口に膾炙してしまえば、本来誰にも言えないようなことを、それ自身を言わず、しかし同じ前提を持った仲間同士で共有することができるわけです。言葉の意味というのは、辞書的な定義として辞書編集者に採取されるような意味だけではなく、局所的な文脈はもちろん、時間、場所、発話者の背景や表情、身振り手振り、言いよどみ、言い誤り、そういったさまざまな要素によって総合的に決定されます(パロール)。しかし、それらによって付与された意味というのは、指摘する側には手の届かない場所にあります。いや、書いてて恐ろしくなってきました。
一度社会に根を張った差別(人種に限りません)を、外科的に取り除くことは可能なのでしょうか?
制度で権利を保護しておいて、内心の差別意識が薄れるまでただやり過ごすしかなくなるんじゃないかと、身もフタもないことを考えてしまいます。一度発生した差別というものが容易には取り除けないこと、そしてそれが社会とその市民に負わせる長期的で重い負担というのを、現在の状況はまさに示している気がします。