今回の記事は、以下の記事で頂いたNFT神太郎様のコメントがきっかけです。
NFT神太郎様の「外国には理系文系の区別はありません」というご指摘に対して、私の返信が以下でしたが。
仰せの通り、日本以外では「人」と「自然」に分けられていて、日本のような文系か理系かという分け方ではありませんよね。
日本の分け方の理由は「明治時代になって欧米から日本に教育システムを持ち込む際に、富国強兵のうちの強兵を優先し、兵器を造る理系の人材をいち早く育てたかった」のではないかと考えております。
これが遅れると日本も植民地にされるかもしれない、その危機感がそうさせたのではと。
これは以前『藝術と芸術とアートの違いを知ると、これからの生き方も見えてくる』という記事で書いたことがありました。
該当部分を引用します。
植民地化を避けるためには「富国強兵」をしなければなりませんが、この中でも優先されるのは前半の「富国」よりも後半の「強兵」です。
「強兵」では強い兵士と強い兵器が必要であり、強い兵器を造るためには優秀な理系の学者さんが必要ですから。
つまり富国よりも強兵を優先したために理系の人材は優先順位が高かったわけですが、だからと言って、文系の人材が劣っているとか要らないとか、そういうことにはなりません。
これからも国を豊かにし続けるためには文系の学問は必要不可欠ですし、実際に世界的に豊かな会社であるGAFAは哲学者を雇っているのですから。
経済的に豊かであっても、軍が弱いと他国に責められたり内乱が起きたりする可能性があるわけですね。
逆に経済的には破綻していても軍がまともに機能しているのならば、他国から攻められにくいですし、内乱も起こりにくい状態になります。
日本の近くにもありますよね。
つまり、明治時代に欧米から持って帰った教育システムは、日本が独自に文系と理系に分けましたが、本来の分け方は「人(がつくったもの=アート)」と「自然(神がおつくりになったもの=ネイチャー)」に分けられるというものだったです。
この分け方だと日本の文系と理系の分け方とは違いますので、差異が生じます。
例えば「日本では文系とされる心理学や経済学が、欧米では理系に近いものとして捉えられている」ということがあるようです。
で、欧米のこの分け方が、日本以外の世界の当たり前となっているわけですが。
何故ならば、欧米以外の他国のほとんどは欧米の植民地だったからですね(アジアでそうでないのは日本とタイだけでしたっけ)。
ところで、この「人(アート)」と「自然(ネイチャー)」という分け方で、前者の「アート(=art)」について。
「artifact(人工物)」あるいは「artificial(人工の)」の「art」が、人工という意味の接頭語にもなっています。
自然の豊かな田舎の状態から、人がいろいろな仕事をして都市へと発展し、建物などの人工物だらけになると。
そう言えば、このことを嘆いておられた先生がおられました。