今回は枕草子より第二百九十九段『雪のいと高う降りたるを』と、徒然草第百九段『高名の木登りといひし男』で学びます。
まずこの「枕草子」と「徒然草」の本質的価値はと言えば、いずれも日本三大随筆の一つとして数えられている優れた作品であるということです。
そして今回の『雪のいと高う降りたるを』と『高名の木登りといひし男』にも当然ながら、その本質的な価値が含まれています。
枕草子『雪のいと高う降りたるを』の現代語訳等については以下、マナペディア様の記事を参考にさせて頂きました。
必要なところを以下に引用させて頂きます。
(中宮定子様が、)「清少納言よ。香炉峰の雪はどうであろうか」とおっしゃるので、(私は人に命じて)御格子を上げさせて、御簾を高く上げたところ、(中宮定子様は)お笑いになります。
(周りにいた他の)女房も、「そのようなこと(香炉峰の雪のこと)は知っておりますし、歌などに詠むことまでありますが、(このように御簾を上げようとまでは)思いつきませんでした。(あなたは)やはり、この中宮のお側につく人にふさわしい人のようです。」と言っています。
以上です。
徒然草『高名の木登りといひし男』の現代語訳等については以下、同じくマナペディア様より。
必要なところを以下に引用させて頂きます。
名高い木登りと言った男が、人に指示をして、高い木に登らせて梢を切らせたところ、(作業場が高く)とても危なく見えたときには声をかけることもなく、(高い所から)降りてくるときに軒の高さぐらいになって「怪我をするな。気をつけておりなさい」と(初めて)声をかけましたので、「この程度(の高さ)になれば、飛び降りても降りることができるでしょう。どうしてこのように言うのですか」と申しましたところ、「そのことでございます。(高さで)めまいがし、枝が(細く折れそうで)危ないうちは、(登っている人は)自分で怖がりますから(気をつけなさいとは)申しません。失敗は、簡単なところになって、必ず起こるものでございます。」と言います。
(この木登り名人は)身分の低い下人ではあるけれど、(言っていることは)徳の高い人の戒めと合致しています。
以上です。
で、この二つの作品の「本質的な価値」をもっと具体的に言えば何ぞや?
いずれも本質的な価値は「教養」であり、かつ「情報」です。
大きく言えば「情報」ですが、細かく言えば「ご先祖様の残した素晴らしい作品」であり、我々子孫が大切にしていかなければならないものであるとも言えます。
だからこそ、学校の教科書で採用されたり、入試で出題されたりもするわけですけれども。
「入試で出題されるから」という理由でこれらを学ぶことは、実は「本末転倒であり、手段が目的化している」状態とも言えるでしょう。
というわけで、今回は目的化した手段を忘れて本来の目的に戻したいと思います。
「情報」の価値とは「誰が言ったか」「どういう表現で言ったか」などではなく、その「情報そのものにある」ものです。
いずれの作品も本質的な価値(=情報)が含まれていますが、さらに前者の枕草子『雪のいと高う降りたるを』は後者の徒然草『高名の木登りといひし男』にはない「付加価値(である情報)」も含まれています。
この時の付加価値とは「白居易の詠んだ歌に出てくる山のことで『香炉峰に積もった雪を、御簾を上げて眺める』という描写がある、という情報」です。
つまりこれは「誰が言ったか」「どういう表現で言ったか」という付加価値が含まれており、それを含めてこの情報を知る者とそうではない者に分かれます。
もっと細かく言えば「誰が言ったか」は白居易であり、御簾を上げて眺めるという描写が「どういう表現で言ったか」に該当します。
で、この「付加価値(である「情報」)」の使い方ですけれども。
これを使ったのは、清少納言の仕えている「中宮定子」ですね。
清少納言は中宮定子の女房(宮廷で働く女性)の中でも、今で言えば家庭教師のような仕事をしていました。
そこで定子が「清少納言に家庭教師としての知識があるかどうかを、香炉峰の雪という語句で試した」という場面です。
その結果「期待(口頭で正しく答える)以上のことをした」と定子や皆に褒められたという内容なので、ここだけ読むと清少納言の自慢にしか見えないですけれども。
枕草子全体を読むと「中宮定子様は賢くて素晴らしい女性である」ということが最も清少納言の主張したいことであり、この話も「白居易の詩で私を試した定子様は、何と博学なお方であるのか」ということが言いたかったというわけです。
まとめると、付加価値の情報を利用し「この情報を知る(=知識を持つ)ものかどうか」で人を試すこともでき、実際に「定子がそれを行い、清少納言は期待以上の形で応えた」という話となります。
これに対して、徒然草『高名の木登りといひし男』の木登り名人は無名の人であり、白居易の詩に場合にあった付加価値はありません。
しかしその無名の人の一言を兼好法師は「価値あるもの(=本質的価値)」と評価し、徒然草に残して我々に伝えてくれているわけです。
おっと、出ましたよー?!
兼好法師の「評価」の能力が。
ここまでは「付加価値で人を試す」という使い方の例を挙げていますが、それ以外には「付加価値で物を売る」という使い方があります。
例えば「白居易の詩集」を売る場合のように、実力があると有名な人の作品集は「著者が有名だ」という付加価値によって買う人が多くなるわけですけれども。
確かに作品は非常に素晴らしいが作者は無名である、という場合はどうすれば良いのでしょうか?
その場合は「(実力がある、有名であるなどの)付加価値を持つ人に推薦してもらう(=付加価値を持つ人が、高く評価していることをアピールする)」という方法がありますよね。
書籍を売る場合で言えば「帯を作成し、そこに有名人のおすすめ文を載せる」とか。
これを先ほどの徒然草『高名の木登りといひし男』で言えば、無名の木登り名人の戒めを兼好法師が褒めたところに該当します。
つまりどんなに良い作品であっても、作者がこの木登り名人のような無名の人の場合にはなかなか売れないでしょうが、帯に兼好法師のような人の推薦文を書くという方法で非常に売りやすい状態にすることができるわけです。
あれぇー、変ですよねー。
本当の価値(=本質的価値)は、作品そのものにあるのにねー。
まぁ、そんなもんです。
詩文などの文学のみならず、芸術や芸能、哲学、ラグジュアリーの商品やマニアックな趣味の商品を含めて全部が全部……目利きの要るものであり、本質的な価値を見出すのが難しいものです。
今回お話し致したかったことは以上となりますが、ここから余談です。
もっと本質的な価値を見出すのが容易い例としては、例えば野球選手を挙げることができますね。
野球選手の本質的価値とは「野球をするのが上手い」ことですが、これは打率や防御率などの具体的な数字で表すことができますので、先ほど挙げた文学や芸術などよりも遥かにわかりやすいものとなります。
しかし選手としての本質的な価値のみで年俸が決まるのかといえば、そんなことはありません。
この辺りの話にご興味のある方は、以下の記事もどうぞ。
上記リンク先の記事は、巨人の星の登場人物である左門と花形を例に挙げています。
「左門と花形の実力(=本質的な価値)が同じであった場合、花形はイケメン金持ちという付加価値がある分、左門よりも年俸が多くなる」という話をしています。
ならば左門が「自分の年俸をもっと上げたい」と思った時にはどうすれば良いのか……その方法の一例を挙げてみました。
以上です。