電子書籍『人文学(とちょっとだけ仮想通貨&NFT)で、これからの生き方を学ぶ』の「番外編1、日本の国を知る「災害が非常に多い」」です。
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本篇では何度も孫氏の兵法「彼(敵)を知り己を知れば百戦殆(危)うからず」を取り上げ、主に「個人」に当てはめて考えることを促してきました。
ここで「己」を「日本」という国に当てはめて考えますと、次の一言に帰結します。
◎災害が多い
『一般財団法人国土技術研究センター』には次のような記載があります。
「日本の国土の面積は全世界のたった0.28%しかありません。しかし、全世界で起こったマグニチュード6以上の地震の20.5%が日本で起こり、全世界の活火山の7.0%が日本にあります。また、全世界で災害で死亡する人の0.3%が日本、全世界の災害で受けた被害金額の11.9%が日本の被害金額となっています。このように、日本は世界でも災害の割合が高い国です」
それ故に、日本の国民は次のような特徴を持っています。
一、 プレイヤー至上主義でありながら組織的
二、 時間的にも空間的にも直近のみを重視する
三、 何かに従うか意図的ではない失敗には寛容
三番の前者の「何か」というのは例えば「時代」であり、その当時または現在の「常識」や、あるいは会社や村などといった「その個人が属する大きな組織」が該当します。
つまり「当時はそういう時代だったから仕方がない」「皆が言う常識だから仕方がない」「会社の命令だから仕方がない」という言い訳が、非常に通りやすい社会だということです。
また後者の「わざとじゃないから仕方がない」というのも、通りやすい言い訳の一つです。
これは、意図的に挑戦して失敗した者に対して「ナイスチャレンジ」と言い、挑戦したことを褒め称えるアメリカのような国々とは、えらい違いであると言わざるを得ません(もちろん、意図的に損害を与えるつもりで失敗するのは論外です)。
さらに日本では、このような言い訳で皆が簡単に許してしまう傾向があり、その場合には必要十分な反省と再発防止の手段等の検証が足りない状態のまま、問題が放置されてしまうことになります。
(本編では「評価する能力が低い」という問題が放置されていることの例として、第八章でミッドウェー海戦の話を例として挙げていました。
また別の例として、アメリカでは決算の数字が予想よりも遥かに良すぎた場合「見積もる能力が低い」と貶されるらしく、この点でも「嬉しい誤算」と言ってひたすら喜ぶ日本とは大きな違いがあります)
一番と二番については別の言葉で既にお話しした内容となりますが、ここでより詳細にお話ししたいと思います。
一番の「プレイヤー」について。
「プレイヤー」でかつ組織で戦うのが得意な人材とは、ずばり「労働者」です。
つまり「プレイヤー」の中で最も多く占めるのは「労働者」で、それ故に日本は世界に誇る質の良い多数の労働者(=国民)を抱えることができているのです。
日本はこのプレイヤーに対する評価が非常に高く、悪い言い方をすると「評価が集中し過ぎている状態」であるとも言えます(それも極めて能力の高い優秀な人にのみ集中)。
日本では優秀な経営者より、優秀な職人さんの方が高く評価される傾向があります(例えば「人間国宝」とか。「いぶし銀」という表現もありますね)。
職人さんと言えば労働者ではなく個人事業主の場合もあるでしょうが、その個人事業主で例えばスポーツ選手の場合、残念ながらこの傾向が裏目に出ることもあります。
スポーツで現役時代に大活躍した選手が、引退後に不幸な状態に陥ることはあまり珍しい話ではありません。
自殺や自殺も疑われる最期(DVの挙句に自暴自棄の自動車事故など)を迎えた元選手もいれば、引退後に詐欺や恐喝や暴行、覚せい剤などの犯罪に手を染める元選手、またはそこまでいかなくとも現役時代と同じような金銭感覚でお金を使って自己破産する元選手など。
これらは観客による「現役時代の輝かしく活躍している時には過剰に持て囃し、引退したら一変し冷淡になる」という態度も、背後に潜む原因の一つではないでしょうか。
それでありながら、現役時代から引退後のことを考えてビジネスをしているサッカー選手に「そんなことする暇があるなら、その時間にもっと練習すべきだ」などと非難する人もたくさんいます。
この観客による現役時代のみ過剰に持て囃す行為は、二番の「時間的にも空間的にも直近のみ重視する」傾向にも繋がっています。
この二番の「時間的にも空間的にも直近のみ重視する」傾向は、良く言えば「地に足がついている」とも言えます。
一歩一歩また一歩と努力を重ねて精進する、これはこれで美しい行為です。
しかし今、これからの時代で直近しか見ないこの行為が如何に危険なことなのか、その理由を本編で「時代とテクノロジーの進歩の速度があまりにも速いため」であると、お話ししていました。
そしてもう一つ、直近しか見えないことは逆に「目の前の仕事に熱心であるからこそ、その状態になっている」という、つまり労働者としては美徳であると言えなくもない状態でもあるのです。
先ほど例に挙げた、引退後のことを考えてビジネスをしているサッカー選手に「もっと練習すべきだ」と言う観客の心理はまさにこれで、この観客は「スポーツ選手とは、一心不乱にそのスポーツに携わっている姿が美しく理想的なものであり、かつ常にそうあるべきである」と思っているのでしょう。
そういう観客の声を真に受けて、現役時代には練習以外何もしていなかったという選手が引退したら、どうなるでしょうか?
まずコーチや監督などそのスポーツの指導者になることができるのは、現役時代の成績が非常に優れているということだけではなく、技術を教える能力やコミュニケーション能力など、現役時代には求められなかったことまで幅広く優れている能力の持ち主に限られます。
そして大変に失礼な言い方をさせて頂きますと、このような観客の言うことを真に受けるスポーツ選手は、そもそもコーチや監督のような指導者には向いていないでしょう。
(余談ですが、もう亡くなってかなり経ちますが著名なプロレスラーのジャイアント馬場氏は昔、巨人軍のピッチャーでした。
その時、後に西武で六回も日本一にしたという森祇晶元監督と同じ合宿所にいて、森氏に「監督やコーチにはお歳暮やお中元を贈らずに、実力で勝負しよう」と言われてそのようにしたら、言い出しっぺの森氏はちゃっかり贈っていたということがあったそうです。
私はこの話をテレビのトーク番組(番組名や局等は失念)で知ったのですが、この話をしていた馬場氏は森氏を非難せず「あのようなことができる人ではないと、監督にはなれないだろう」と仰っていたのを覚えています。
……ただし私が最も観たいのは、主審に「代打、〇〇」とバントのジェスチャーをしながら告げる長嶋監督の試合ですけど。笑)
日本のプレイヤー至上主義は「災害があると復興時の作業をする必要があり、その時に多大な貢献をした者を褒め称えることから自然発生したもの」と考えられます。
そしてその作業時には「村長など指揮命令者の指示に従って、皆で協力して行う必要」がありますので、組織的なものになります。
さらに緊急時のことですから、まずは「一秒でも早く災害から復旧させる」「目の前にいる被災者のケアをする」という状況にありますので、これでは時間的にも空間的にも直近を重視せざるを得ません。
そして残念ながら、死力を尽くしても被災者の命を救うことができない、ということもあるでしょうが、非常時でかつ指揮命令者に従ってこの結果に至った場合、このことを責めようとする者は誰一人としていないでしょう。
また、日本で良く言われる「自己責任」という価値観も、このような災害時に「自らの命を失わないようにするのがギリギリの状態で、他者を救うことができなかった」という状況に陥った者を責めないために生まれたのではないか、と私は考えています。
諺に「罪を憎んで人を憎まず」とありますが、日本という国の場合には「災害を憎んで人を憎まず」の方がより当てはまるのではないかとも、私は常々考えているようにしています(そうすると「他人を憎むという感情に囚われなくて済む」という利点もあります)。