GDPとは「Gross Domestic Product」の略で「国内総生産」のことを指します。
つまり「日本のGDPを増やす」とは「日本国内の生産力を上げる」ということになります。
(GDPについては以前、以下のような記事を書いていました。
ご興味ある方は、こちらもよろしくお願い致します)
この「生産力を上げる」ためには「生産をする活動(=生産活動)をより活発にする」ということをしなければなりません。
その「生産活動をより活発にする」ためには、生産活動をする人の数ができるだけ多くなるようにする必要があります。
そのため、自殺を防ぐことは非常に効果のあることです。
仮に自殺を防いだ人が生産力の乏しい人だったとしても、防がれて命を救われた人が後に高い生産力を身に付けたとすると、さらに効果があるとは思いませんか?
この場合のGDPの計算では、自殺を防がれた人の方のみが対象となってしまいますけれども、実際には自殺を防いだ人の方の貢献度は非常に高いと言わざるを得ません。
ではここで、「生産活動」には二種類存在することをご存じでしょうか?
それは「狭義の生産活動」と「広義の生産活動」です。
この両者を分けるのは「お金になるか、ならないか」という話であり、一般的で経済学が問題にするのは「(お金になる)狭義の生産活動」です。
つまり「広義の生産活動」には、お金にはならない自給自足的な農業による生産活動や、主婦の家事労働や売れない芸術家の創作活動も含まれるわけです。
そこで、私が最も効果的だと考えているのが「広義の生産活動を狭義のものに換えること」です。
その「広義の生産活動を狭義のものに換える」ためには、評価する能力という「需要(客)側の能力」の一つが必要です(「需要(客)側の能力」とは「選択・使用・評価」の三つです)。
具体的な例としてゴッホの絵画を挙げてみましょう……って、既にそんな話を以下の記事で書いていましたので、ここでは割愛します。
この記事を要約すると「ゴッホが絵を描いた時点では広義の生産だが、この絵に価値があると評価された時に狭義の生産に換わっている」という話です。
つまり私がここでお話ししたかったのは「高い評価能力(←客側の能力)を持つ人が増えると日本のGDPは上がる」ということです。
これまでの日本では、絵を描く側の人だけにフォーカスし過ぎていたのではないかと。
上手く絵を描ける側の人でなければダメだと、あまりに言い過ぎていたのではないかと。
そしてダメ人間扱いされていた人の中には、むしろ評価する側の天才や秀才が含まれているのではないかと。
そういうことが言いたかったのです。
それともう一つ。
先ほどの延長線上の話として、日本では労働をあまりにも高く評価し過ぎている、ということも言えるでしょう。
これは日本で起こりがちな「手段の目的化」による誤りです。
労働は尊いものですが、それは「労働が生産活動の効果的な手段だから」です。
テクノロジーが未発達でかつ、生活に必要なものが足りないという昔の時代であれば、人力による労働は生産活動の手段として、非常にありがたいものとなります。
このような時代であれば「労働=生産活動」と言える状態となります。
しかし今、これからの時代は「生活に必要なものは十分にあり、かつ労働には機械に加えてAIやロボット、AIを搭載したスマートロボットなども参入する」ため、人力による労働力は「以前よりも、ありがたいものではなくなる」ようになります。
つまり生産活動における労働という手段は、効果的なものではなくなってきているので(「=」とは言えないようになっているので)す。
というわけで先ほどの話とは逆に、時代が先に進めば進むほど、必ずしも「労働が生産活動とは言えない時代に近づいている」ということになるわけです。
我々は労働という手段ではなく、生産活動という目的の方に着目すべきだと思いませんか。