タイトルそのまんまなのですが、労働観の変遷についてのわかりやすい記事を拝読致しましたので、皆さんにもおすすめ致したいと思います。
元は村山昇氏の著書『働き方の哲学』からの記事のようです。
その紹介ページはこちらです。
上記の記事で、個人的にへぇーと思ったところはですね。
麻生副総理がかつて総理だった時に「キリスト教やイスラム教を合わせた世界の七割ほどの宗教の哲学では労働は罰だとしている」という発言があったそうです。
ただし、麻生氏はこの時以外にもこのような発言をされていたのではないかと思うのですけれども。
もっと後になってからも、このようなことを仰っておられたのを聞いたことがありますので。
何が言いたいのかと言いますと「この発言は間違いではないけど、ちょっと大雑把過ぎるのではないか」ということです。
冒頭のリンク先の記事を拝読致しますと、古代のキリスト教で「神は労働を罰として課した」のは正しいのですが、中世の時代に「労働は祈りや冥想とともに重要な行いの一つ」となるからです。
そしてその後の近世のキリスト教世界では「労働を通して神の偉大さを証明する」となっていきます。
もう少し細かく言いますと、当初は労働自体が罰という悪いことであったのが、その後に労働自体は重要な行いという良いものに変わり、蓄財が悪いことである(貯まったお金は教会に寄進すべき)となるわけですね。
で、寄進した先の教会が腐敗したことで宗教改革になりました。
その宗教改革で、勤勉な労働によってもたらされる富の増大も積極的に肯定する考え方がプロテスタントのカルヴァン派によって確立されます。
というわけで、間違いとまでは言えませんけど、ちょっと大雑把過ぎるのではないかというツッコミでした。
演説だから良いのでしょうけども。
個人的にメモっていたのですが、わかりやすいので記事にして公開してみました。
(また、記事の末尾付近の以下の記載が、個人的に嬉しかったりもします。
「趣味としての仕事」「ゲームとしての仕事」がまったく普通の労働観になるかもしれません。
もろ「Play to Earn」やないですかと)