〈コガネ〉を、つまり呂千廻の唾を〈大水〉で一度洗い流すことに衆議一決した。〈モッタイナイ〉、〈残酷ダ〉、〈ジキニ収束スル〉、〈皆ガ溺レ死ンダラドウスル〉と〈一決〉した後で活発に意見が交わされた。君咩主はそれでも〈《灰ニシテシマッタ》《人ノ女》ハドウナルノダロウ〉と鹿魚のことを気にしていた。人について〈可愛イ〉、〈可哀想〉といつも言っていたが、ただの素朴な感想だったらしい。それどころではないことを無視すれば愚痴愚痴のなか彼の心配りだけは不愉快ではない。「やはりやめておこうか」とまだ未練がある。誰一柱積極的に賛成していないように見受けられるが、それならば一体〈一決〉はどうやってなされたのか分からない。私は物の数に入っていなかった。〈一決〉したはいいが、〈一決〉状態から全く進展しないので業を煮やした足禹能尊が「行ってきますよ」と言い置いて、殆ど勝手に地に降りた。人に〈大水〉を知らせようというのだ。現〈猪畫王朝〉の代表者に告げることにした。結局、例の〈大帝〉に名乗りを上げた都護尉飯九と司空丞与阿はいずれもその座に着くことが出来ず、死んだ。都護尉飯九は落馬し、司空丞与阿は無花果に当たった。互いに暗殺し合ったに違いないが、その前後や経緯の詳細を究めている余裕はない。緇里敍という下等校尉が立った。もうその男以外に将卒士卒が存在しなかった(初代地帝〈緇里敍〉と同じ名を持つ。私にとっては紛らわしく人にとっては不敬な筈の暗合は一切考慮されていない)。都護尉飯九が連呼していた〈大帝〉は畏れ多いということで名乗った〈地帝〉が、偶然にも彼らの祖先の〈天帝〉に対する謙称に合致した。一方で、祭司長たる神官を指名した。緇里敍は〈地帝〉で一本立ちする自信がなかった。陰類匱は喜んで拝命した。彼もまた生き残りのなかで最上等の位階にあった。〈シカジカ〉と打診するとその内容に関わらず必ず〈ハイ。ドウゾヨシナニ〉と返事をする好々爺であり、〈ハイドーゾ〉と綽名されていた。〈猪畫王朝〉の理念に〈政教一致〉を掲げた。地帝緇里敍と神官陰類匱が初めて下知したのは甘薯畑仕事の持ち回り順と、洗濯を効率的合理的に回転させるために衣服を共用可能な筒服に統一することであった。足禹能尊はこの二人の所謂夢枕に立ち、〈大水〉を幻視せしめた。その〈大水〉は呂千廻を使って用意することになった。〈八百万ノ神ダチ〉に紛れて呂千廻は群集の一部になったつもりでいたが、彼の唾が原因だという事実は皆がしつこく覚えていた。天に帰って来た足禹能尊が呂千廻を引き摺り出して、〈両断〉し、〈短冊〉状に切り分け、〈心太〉程度に揃え、更に〈絹糸〉より細くした。薄紅色の筋が絡み合う〈大水〉が出来上がった。人が〈玉船〉を拵えるのを待つだけだった。
私は風になって地に降りた。気付かれている筈はない。廬塢靈塢北北西のある小山に二十人ばかりの人がいる。白鷺青鷺と名乗る兄弟がここの餓鬼大将だった。彼らの来歴を振り返る〈余裕ハナイ〉。要するに、野盗崩れの下っ端が栄養の悪い細民をいじめていい気になっている。特に断っておくべきは、白鷺青鷺兄弟は文字通り〈一心同体〉であることくらいである。兄白鷺が誤って希釈された〈コガネ〉が流れる川に手を浸してしまった。慌てて引き抜いたが、すでに肩まで溶けていた。弟青鷺は兄白鷺を抱いた。死への恐怖を和らげてやるつもりだったらしい。兄白鷺の右肩が弟青鷺の左腕を侵食していった。兄白鷺と弟青鷺は奇妙な安らぎと恍惚のなかにいた。融解と侵食が止まった。兄白鷺の左半身、弟青鷺の右半身がそれぞれ残った。〈コガネ〉を糊にして二人は接着されていた。〈コガネ〉に触れて直ちに消滅せず、このような作用を齎したのは川の水に限界まで薄められていた所為らしい。これ以降、二人は一人になって白鷺青鷺と名乗った。もう、ただの〈下ッ端〉兄弟ではない。怪異な容貌を与え、彼らを特別な存在にしたこの事故を、白鷺青鷺はかえって喜んだ。移動は不自由だが、力と声が二人分になった。知能は三尺の童並に低下した。脳髄の合わせ目に少々ずれがあったらしい。
弖飛が白鷺青鷺に拘禁されていた。白鷺青鷺は〈二十人バカリ〉の人口を減らすことは非常な損失であると知っていた。どんな罪を犯したとしても、殺すのには慎重だった。正丁二人を使役して穿った穴倉を牢屋にした。弖飛が初めての囚人だった。なにをしたわけでもない。寧ろなにもしなかったからぶち込まれた。魔羅に藁稭を括り付けただけの野蛮人そのものの格好で彷徨いていたのを発見された。誰何しても反応がなかった。虚ろな目で空に視線を漂わせていた。〈コガネ〉に家族を飲まれて気が狂ったのだろうと皆は気の毒に思った。若い男はなにより貴重だった。正気付くかどうか、白鷺青鷺は観察してみることにした。私は人差指を銅の鉤にして、弖飛の右耳を引っ掛けた。そのまま竹の粗末な柵を破り、持ち上げた。白鷺青鷺と〈二十人バカリ〉は目を剥いて浮遊する弖飛を眺めていた。耳に穴が開く前に、弖飛は私の鉤を握ってぶら下がる。流石に弖飛は〈正気付〉いていた。弖飛、「なんだ、なんだ」私、「おまえの親だ」「俺に親はいない」「いや、私だ」「なぜ俺は飛んでいるんだ」「おまえはずっと元気がなかった」「そうだな。体がだるくて全然なにもする気が起きない。そういえば食い物も水も口にしてない。やっぱり俺の親なのか。よく知ってるな」「私はおまえが何故そんな風だったか分かる」「何故だ」「鹿魚だ」「なんだって」「おまえが最後に会った娘だ」「それが、どうした」「おまえは鹿魚を愛している」「よく分からない」「鹿魚の顔を〈イツモ見テイタイ〉と思わないか」「思う」「衣服を着せてやる。じっとしていろ」
鹿魚は帝都を北に五十歩哩ばかり離れた丘陵にいた。皆が〈裏山〉と言っていた。宮廷最深部、砦壁に寄り添って聳立する承香殿の庭園のようなものだった。〈コガネ〉が帝都を襲った日の朝、侍従丞樂止藐が異変を察したときにはもう遅かった。彼は鹿魚を背負って〈裏山〉へ向かった。獣道を〈コガネ〉は縦横に走っていた。飛び石を踏み外し、侍従丞樂止藐は〈コガネ〉に片足を沈めた。最後の一歩だった。鹿魚を放り投げ、彼は溶けた。夢うつつの鹿魚はなにがなんだか理解出来ない。騒がしくて起きたらゆらゆら揺すぶられて、地べたに落下していた。従丞樂止藐の声がした。〈生キテ。絶望シナイデ。死ナナイデ。私ノ鹿魚〉。姿を探したが、見当たらなかった。
弖飛を〈裏山〉に下ろした。鹿魚は穴を掘っているところだった。頂上には叢祠に二柱の神が祀られていた。その縁起を語る〈余裕ハナイ〉。〈二柱ノ神〉のある利益効験を当てにして女が一人、鹿魚より先に逃げて来ていた。私娼窟の女婢で、妊娠していた。叢祠に辿り着き、太息を吐いた瞬間、子が産道を抜けた。一生懸命に手足をばたつかせた、〈腋興梠ノ転居〉のような急激な運動が祟ったらしい。子は男で、もう死んでいた。女婢はその無名の子を抱きながら自分の出血を止める術もなく、じきに後を追って死んだ。その母子を鹿魚は哀れに思い、せめて埋めてやろうとしていた。弖飛が現れ、鹿魚は振り返った。鹿魚、「久しぶり」弖飛、「そうだな」「なんだか変だ。また戦争かな」「違うみたいだ」「様子を見てたほうがいいな」「そうだな」「どうした」「いや、ほっとした。そうじゃないな。そわそわする」「なんで」「おまえの顔を〈イツモ見テイタイ〉らしい」「いいよ」「じゃあ〈見テ〉る。おまえはどうだ。俺を〈見テイタイ〉か」「分からん」「そうか」「全然分からん」「じゃあ、いいよ」「試しに〈見テイ〉よう。嫌になったら、やめる」「よし、そうしろ」
私は天に帰った。丁度〈大水〉の散布準備が終わっていた。褞袍戸から〈大水〉を皆で一桶ずつ捨てていった。鹿魚と弖飛は助かるかどうか。〈光トトモニアレ〉と私は口にした。人がまた増える。君咩主はその様を見て〈可愛イ〉と言うに決まっている。寐盡普尊が欠伸をした。私、「おはよう」寐盡普尊、「嫌な夢を見ました」「〈コガネ〉の所為で〈普遍磁気〉がぐちゃぐちゃだからな。君に感応する筈だ」「寝汗を掻いた。あっちの窓際で寝ましょう。少しは涼しいでしょう」「また寝るのか」「はい」「次はいい夢であることを祈るよ」「はい。それが私の仕事ですから」