

人類は生きる為に争いを続けてきた。と同時に、生き延びるためには、仲間が必要だった。どうしたら生きやすくなるのか、常に、想像しなければならなかった。人類の歴史を動かしたのは、いつも対話だった。人は対話をやめたときに、戦争を始めてしまう。人を支配し、管理してしまう。
「やばい」という言葉は、とても便利な言葉です。私もよく使います。
美味しいご飯を食べたとき、「やばい!」
仕事が忙しい時、「やばい・・・」
とにかく、やばいは使えます。
でも、やばい、だけで会話していたら多分、自分の本当の気持ちは一生伝わらなくて、相手の本当の気持ちも分かりません。もちろん、昨日のブログの通り、私達は、分かり合うことなんてできないんだけど。
それでもギリギリまで、納得のいくまで、分かり合おうと、し合うことは、とてもしんどくて面倒で、とにかく早さを求められているこの社会では、もはや不必要なものとすらされているものかもしれないんだけど、それはとっても危険なことだと思うのです。
「やばい!」「分かる~!」
だけで会話が成り立っていることは、別に悪いことではないけれど。
なんとなく分かり合えている共感の共同体のような気がしていたら、全く別な気持ちを持っていることに気が付いて、その時の「言葉」の選び方が分からない。「分からない」と言ったら、もう関係を続けられないような気さえしてしまう。
これは、今の子どもたちにある現象だと思います。
じっくり、自分の気持ちを表現する言葉を探しながら、他者と対話をする時間は、だから今の時代こそ、大事な気がします。
ただ、子どもたちの生きてる時代が、なんとも複雑で変化の早い時代だから、通訳しようにも、もはや、私達には「翻訳できない」領域もあるのではないか、とも感じていて。
だから、先生の役割の中に入ってきている「通訳」も、それはそれで、とても高度なものになってきているのではないか、、、なんて感じた今日でした。
でもだからこそ、なんです。cotohokuの事業。
「声が交わるたび、学校は軽くなる。問いが生まれるたび、まちは前に進む。」
おやすみなさい。










