9歳の時。
東京ディズニーランドに行ってきた。
俺は、ディズニーランドに行くにあたって、がっごうをズル休みした。
そして、平日に行く事になった。
でもこれは、母親と父親が許可して学校を休んだ事。
いつもの仮病とは、訳が違う。
当時、ディズニーランドは出来たばかりで、死ぬほど込み合っていた。
でもそれは、日祝だけの時の話。
平日は、ガラガラだった。
込んでいる時に行っても、何も遊べないから特別に平日に行く事になった。
でも父親は、仕事なので行かなかった。
そして我々は、初代スズキアルトに載ってディズニーランドに向かった。
当時住んでいた三郷団地からディズニーランドまで1時間半位で到着した。
この時はまだ舞浜駅はなく、周りは見渡す限りただの土が広がっていた。
駐車場すらコンクリートではなく土だった。
到着した駐車場には、全く車なんて無く我々の車位しかなかった。
そして、ディズニーランドに入るともっと驚いた。
中には、職員がチラホラいるだけで客がほとんど居ない。
平日の空きようは異常だった。
そして我々は、列に並ばずアトラクションに乗り放題の中遊び回って来た。
そうは言っても、まだアトラクションは10個も無かったと思う。
スペースマウンテンすら完成していなかった。
それもそのはず、我々が来た時は、開業して1週間後位の時だったからだ。
でもアトラクションは少ないが、並ばず何でも乗り物に乗れるのは最高。
我々兄弟は、園内を走り回って目に映る乗り物に全部乗りまくった。
そして、昼食をしようと入口方面にあるレストラン街に向かった。
そこで昼食場所を選んでいたら、値段がどこもバカ高い。
それを見た母親が、何とか1番安い所を見つけてそこに入る事になった。
弟は、当時6歳でお子様ランチを注文していた。
俺は確か、ナポリタンを食べた。
そして午後。
我々は、残りの乗り物に乗る為はしゃぎながらアトラクションに向かった。
覚えているのは、トムソーヤ島、ジャングルクルーズ、汽車、とかかな。
確かシンデレラ城は、工事中で入れなかった。
当時シンデレラ城が何故かデコレーションケーキの1番上の部分に見えた。
俺は、その1番美味しそうな部分に猛烈に入りたかったが、入れなかった。
凄く残念だった記憶がある。
我々は、その後も乗り物に乗りまくり、遊び回った。
そして、夕方帰る事になった。
でも俺は、夜に花火が打ち上げられる事を知っていた。
その事を母親に伝えたら、平日は開催されなと言われてしまった。
確かにこんなにガラガラだったら、開催しても盛り上がらないだろう。
俺は、花火が見れない事が、無念でならなかった。
仕方なく、お土産屋を買って帰る事にした。
俺が買ったお土産は、ミッキーのガラスで出来た人形を買った。
それは、今でも実家に飾ってある。
ディズニーランドは、実は更に昔に日本に上陸していた。
それは、1957年の事。
日本橋三越の屋上に、1か月間だけディズニーランドが設置された。
とは言っても、屋上遊園地よりちょっと豪華な物だったらしい。
これは遊園地の楽しさを知らない子供たち向けに宣伝用として設置された。
当時の中村製作所と言う遊戯施設販売会社の製品宣伝だった。
中村製作所は、後に「ナムコ」と言う会社になる。
1957年5月5日~6月2まで設置されていた。
この遊戯施設は、ディズニーのグッズもちゃんと販売していた。
遊戯施設の紹介と言うより、ディズニーランドの紹介と言う方が正しい。
この施設には、以下の物があった。
・ディズニーランドのパノラマ
・夢の国・未来の国・冒険の国・西部の国の模型
・ディズニー機関車
・魔法の鏡
・動く漫画
・メリーカップ、こども4人乗り6台
・ディズニー漫画館
あの狭いデパートの屋上に、これだけ設置するなんて豪華かもしれない。