今朝、シャワーを浴びていると「これはもしかして…」とおもうことがあり、髪を洗っている最中に「たぶんこれは…」とつぶやいたり、流している最中に「かーんちがいのー なーれのはてはー きみとの さよならでしたー♪(※『GATE』)」とか歌ってみたりして、浴室から出たあとも髪を乾かしながら、「あああああああああ」と声を出していたんだが、なんでそんなことを独りでしていたのかといえば、突発性難聴だった左耳がどうも、治ろうと一生懸命になっていることに気づいたからだった。
嘘かもしれないけれど、ほんとうかもしれない。合っているかもしれないし、勘違いかもしれない。
でも左耳が音を聴こうと一生懸命になっていることは理解できる。シャワーの音、外で鳴く鳥の声、換気扇や冷蔵庫や、そこにある、空気の音なにもかもを聴こうとしていることに気づいた。ばかだと思われるかもしれないが、わたしは2度ほど死にかけたことがあり、それを経て健康なひとみたいな生活を送れるようになってからというもの、体から声が聴こえてくる。「その薬飲んじゃだめ(主にスティーブンス・ジョンソン症候群という薬剤アレルギーのすごいやつなので…)」とか、「きょうは無理していいよ」とか、そういうのが。
まぁ、たた単純に解離している症状なのかもしれないし、なんだか気持ち悪いから書くのはこれぐらいにしておくけれど、今回も自分の心よりも頭よりも別のところで、左耳から音を聴こうとする意志が感じられる。
わたしは左耳を愛おしくおもい、一生懸命元の聴力に戻ろうとする左耳の力をとてつもなく感じて、すごいなぁこんなに必死に元に戻ろうと一生懸命になっていると感心するとともに、わたしはそれに応えてあげられるんだろうか。と心配になりさえしている……。
もともと小さな頃から生み出される力に自分の力をもっていかれがちで、私は春がとてつもなく苦手なのだけれど、左耳に、春の生き物とか花とか生命がうまれるときの力のようなものと同じものを感じていて、自分自身がもっていかれそうで左耳の力に自分自身が応えてあげられるのか不安なのである。
勘違いのなれの果てに、聴力とさよならしないように、わたしはわたしの左耳の一生懸命さを受け止めてしばらく過ごしてみようとおもう。
もうすこし。もうすこしで、わたしの左耳の聴力は、もとに戻るはず。
※『GATE』