ALISでALISっぽい記事を書かずに日々ののんべんだらりとした日記を綴りはじめて4日目。これでいいのだろうか…とおもいながらも、マイペースにいこうとおもう。
10月末で今の仕事を辞めることにした。この先、やりたいことの目処はついているものの、どうしようかな…と考えあぐねている状態でもあるので、就職前の学生のように自己PRを捻出する作業をしたりしているが、困ったことに、わたしはわたしの良いところが思い浮かばない。アピールすることがない。
幼いころや若いころは、怖いものなしで変な虫をつかんだりできていたのに、大人になると要らないかもしれない知識が身についてしまい、それができなくなる。若いころは、ほんとうは50かもしれないのに100能力があると無謀な発言をすることができていたようにもおもうが、今はできない。
しばらくボーッと考えた。なにもない。
まぁいいかとおもい、外に出て、湿度の高い重い空気に身をまかせて歩いた。
わたしは太宰治がすきなのであるが、さいきんの気候に「ア、秋」を感じずにはいられず、歩きながらきょうも秋に鳴くような虫の声が聞こえてきて思わずつぶやいた。
「秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。…夏になると同時に、虫が鳴いているのだし…」
秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。
夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲いているのを発見するし、蜻蛉だって、もともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。
秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者のである。「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房 1988(昭和63)年10月25日第1刷発行「ア、秋」より抜粋
8月半ばになると、わたしは毎年この文章を思い出す。
小さいころから考えていた。季節の変わり目はいつなのか。どのタイミングで春や夏はやってきているのか。そして夏はいつ去って秋がきて冬が存在感を増してゆくのかを。
どうもこの季節はいつも情緒的になり、体も心も不安定でおとなしくしてくれていないようにおもう。でもそれを感じて体と心の声を聴いてあげているのもいいことだとおもう。
自分の良さに気づけず、むしゃくしゃしたので、中村文則氏の本を読んでカレーうどんを食べた。SEO検定2級の問題集を解いて、その2時間後に2キロ弱、スロージョギングをした。
2キロという短い時間でも、ジョギングをしている最中に秋の匂いがした。