クーリエの「世界から見たNIPPON」の記事は、面白くて、日本人を外国の様々な視点から教えてくれる。
“こんまり流”で有名な近藤麻理恵が、アメリカの「ワシントン・ポスト」の文芸評論家に「コンマリさん、お願いだから、私の本棚に触れないでくれ」と言われている、という記事も非常に面白かった。
その中で、興味深かったのが、日本の性欲史についての記事。
1906年の東京朝日新聞では「新版子宝」と題された一連の春画が、警視庁によって押収されたことが報じられている。販売業者は検挙され、警察による取り締まりが強化された。
明治政府は春画を取り締まるため、マスターベーションの有害性を強調する大規模なプロパガンダにも打って出た。研究者や教員の一団を動員して「背徳行為」の撲滅を図ったのだ。
性は科学のテーマとなり、新聞や雑誌が熱心にこのテーマを扱うようになった。1920年代には「春画がタブーになっていた」とのことだが、雑誌に匿名のマスターベーション懺悔録が掲載されるようにもなったという。
記事の体裁は自慰を断罪するものなのだが、その記述は情欲を煽るものであり読者はそれを読んで激しくマスターベーションをしていたらしい。
COURRIER,2019,May,P.68より引用
これを見たとき、スタバで声を出して笑ってしまった。
この後も現代の性欲史として、成人向け動画を作っている大手企業「ソフト・オン・デマンド」の奇々怪界な作品が紹介されている。
その中には、「全裸の女性20人を電話ボックスに詰め込む」や「格納庫の中で250組のカップルが同時にセックス」がある。
これらのコンテンツは一般的な感覚を持つ人間からすれば、「エロい」という感覚よりも「笑い・面白み」を感じると思う。
自分も高校時代「金粉まみれの女性が性交する」 アダルトビデオをクラスの男子で見たとき、みんなで大爆笑したのを覚えている。
日本は自分たちの「エロ」の想像力に長けており、それを見て「何か」を感じることに非常に敏感である為に、表現する分野の技術が発展している。
それをうまく活用できていないことの「もったいなさ」感じる。
テレビ番組を見る感覚と Netflix、amazon primeなどのサブスクリプションを見る感覚は、違う。
テレビは、「何気なくテレビをつける」が、Netflixなどは、「チャンネルを見るためにつける」というのが一般的ではないだろうか。
また、それらのコンテンツを作っているのは外資系が多い。
日本はこれから勝てる分野で勝負するべきだと考える。それは、「視聴者に、見るためにテレビをつけさせる番組」の創出である。
日本人は「モラルがあるスケベ」な人間が多いため、人前でキスなどはあまりしないが、家ではしっかりとコトをする。
そのコンプライアンスギリギリの番組を作るべきである。今売れている番組「水曜日のダウンタウン」や「月曜から夜更かし」などはその代表例だと言える。
ただ、まだ「エロ」を使った、コンプライアンスギリギリの番組はまだ確立して、放映しているキー局は少ないのではないのだろうか。
それが「エロとお笑いを合わせたコンテンツ」やこれまでの「発展しすぎたアダルトコンテンツ」を使い、日本特有の卑猥さ・スケベ加減を国民自らが認め、その面白さで「世界」と勝負することを勧めたい。