2016年5月28日の僕の日記です。
内モンゴルにおける仏教の位置
(「中国とモンゴルのはざまで ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢」より)
(宗教改革なしにモンゴル民族の近代化はありえないという議論は)見当ちがいである。僧侶になったことでチベット語をマスターし、インド哲学の思想を草原に広げていた事実を忘れている。宗教に熱心になったことで、モンゴル人の識字率が上がっていたなど、プラスの側面も大きい。(P174)
僧侶らに労働を命じながらも、福祉政策で以て穏やかに宗教人員の世界観を改造しようとするウラーンフーの政策は異端であろう。彼は宗教に深い理解があったのではない。ラマたちがモンゴル人「人民」を中国共産党が強調するほど「搾取ないしは抑圧」していなかった事実を知っていたからである。だから、暴力的に僧侶らを殺さずに、知識階級たるラマを穏便に社会主義制度に有用な人材に変えようと実践していたのである。(p175-176)
(引用終わり)
モンゴルやチベットで、チベット仏教が果たしていた役割の功罪は、緻密に検討しなければならない今後の課題といえるだろう。
日本仏教が果たしてきた帝国主義支持の罪よりは、マシなことは、なんとなく予想できるが、よく調べなければならない。
いずれにしろ、いまだ日本仏教(各宗派の教団)がきちんと糾弾されていないことは、どうみても、おかしい。
(いくつかの自己反省は発表されたが、各教団は、とても宗教改革された状態とはいえない。また戦争犯罪ともいえる思想を表現してきた人たちの本が、ふつうに本屋に並んでいる。)
2016年6月4日の私の日記です。
階級闘争と民族問題のX交差。
「中国とモンゴルのはざまで ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢」
楊 海英著 読了
気持ち的に思うところは膨大だが、ここでは分析のみ記す。
階級闘争と民族問題のX交差。
この問題をまだ共産主義思想は乗り越えていないのではないか。
民族の上層階級との階級闘争と、民族の自決のどちらが優先されるべきかは、常に常に変化するデリケートな問題だ。
中華人民共和国、特に毛澤東の文化大革命は、階級闘争の名のもとに、漢民族以外の他民族を抑圧し、虐殺してきた。
これは、心理的にも歪つな、狂った権力闘争だろう。
毛澤東との関係では、僕は完全にウラーンフーの肩を持つ。
(何度でも言うが、漢民族のひとりひとりには、信頼できる友達もいるし、個人攻撃に至る嫌中には、絶対反対である。)
しかし。
ここに踏み込むと、友達減らす可能性があるが、僕が翁長知事を完全には信用しないのも、実はこの問題に関係があると思う。
オール沖縄とは、民族問題を「階級闘争」(この言葉は単純化しすぎだが)よりも上位に置く発想だと思う。
琉球独立総合学会ほど極端ではないが、それでも、どちらかというと。
東京の機動隊は、沖縄県公安委員会の要請で出動した。
沖縄県公安委員会の面面は翁長の側近ともいえ、経済的に目立つところでは、琉球銀行頭取を含む。
翁長知事は沖縄経済ということに関して、どのくらい本気で悩んだ末のことかはわからないが、たとえば土建業界との完全な縁切りの決意はない人だと思う。
民族問題としては基地を沖縄に押しつけるなと言う気はあり、それはまったく正しいと思う。
しかし、沖縄内部での経済的な「階級闘争」に関しては、民族問題優先の中で、溶解してしまうようなところがあると思うのだ。
もちろん、経済というのは、無視できないものだ。
だからたとえばモンゴルでは、草原を破壊しない経済発展の可能性が最大限追求されなければならない。
沖縄では海や自然が破壊されない経済発展の可能性が最大限追求されなければならず、その際、沖縄県内部での利権の問題には、鋭く喰いこまなければならない。
やまとんちゅうが言えた義理ではないと切り返すと、また民族問題優先に戻る。
しかし、その民族問題ですら、君が代で起立する沖縄の教員と、座っている大阪の教員では、どちらが大切にしていると言えるだろうか?
僕が、反大漢族主義でありつつも、漢民族のひとりひとりを個として見ているように、反日本帝国主義、反アメリカ覇権主義でありつつも、一方で、やまとんちゅうも、うちなんちゅうも、アメリカ人も、個として見るしかないと思う。
ともかく「民族問題と階級闘争のX交差について」は長期的課題として、メモしておきたい。
アルスさんとは以前よりFBFであったが、但東町のモンゴル博物館で偶然に(初めて実際に)会った。(そういうことは、よくある。)
彼女の、モンゴルの羊毛の固い部分と柔らかい部分を無駄なく利用する産業に関する日本の某国立大学での修士論文は秀逸である。
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