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蝶を放つ あとがき 

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  • あび(abhisheka)
  • 2019/06/22 03:22


 あとがき

 五歳の頃からだったか、夜、眠りに就く前、死について考えるようになった。
 自分は束の間のはかない命をこの星の上で生きている。しかし、宇宙は広大でそこには無数の銀河系が渦巻いている。そのひとつの渦の辺縁に私たちの太陽があり、地球はその燃える星を巡る三つめの惑星に過ぎない。
 そんなことが本棚にある絵図百科事典には書いてあった。百三十七億年ともいわれる宇宙の歴史の中で、自分はたかだか百年にも満たない時をその片隅で過ごし、その後はまた無限の闇だけが続いていく。
 宇宙そのものは果てしない。けれども自分は母や父やおばあちゃんや弟に会うこともできなくなり、話すことも、こうやって独りで考えることすらできなくなる。そのことが恐ろしくて敵わなかった。
 いや、その前にまずあんなに仲のいいおばあちゃんが死んでしまい、もう一緒に笑うことができなくなるだろう。母や父が死んでしまい、もう叱られたり、泣いて甘えたりできなくなるだろう。そう思うと五十年先の未来すら想像するのが怖かった。
「いつまでも、今が続けばいいのに」と思った。
 さて、自分は今、その五十年先に独り佇んでいる。
 祖母は亡くなり、父も食道癌で六十代の若さで急逝した。私の子どもは二人とも成人したが、理由あって妻とは別れ、永年連れ添ってきた妻子にはめったに会うことはなくなった。 
 認知症の母は施設から毎日のように電話をかけてくる。しかも、その中身はほんの十分前の電話で母自身が語ったことと一字一句違わない。母は完全にそのことを忘れてもう一度、その話を繰り返しているのだ。そのあまりに正確な反復が却って認知症の重さを表しているようで、母の記憶の剥落は測り知れない………。
 私自身、去年の二月、五十二歳の若さにして原因不明の特殊型心室細動で倒れた。
 まだまだ若いつもりでいた私はその時、とあるコンサート会場で踊っていたらしい。
「らしい」というのは、その日の朝からの記憶が私にはすっぽり抜けていて、どうやって会場に辿りついたのか、どんな窓口でチケットを買ったのか、未だに何一つ思い出さないのである。
 誰かが救急車を呼んでくれ、AED(自動体外式除細動器)の電気ショックで心拍が再生するまでに要した時間が十三分間。普通ならそのまま還らぬ人になってもおかしくない長さだそうである。
 その間に私は確かにあの世を観た。
「臨死体験」の本は何冊も読んだことがあったが、そこに書かれていたようなトンネルや三途の川、お花畑や亡くなった親者との再会など何もなかった。
 ただ広大な宇宙が広がっていて、無数の星々が集(すだ)いていた。完全に透明で静かな「永遠の今」であった。覚醒が宇宙の隅々までいきわたっていたが、そこに「自分」という意識は全くなかった。
 病院に運び込まれた私は十日間、意識不明だった。病院に呼び出された戸籍上の妻子は「このまま亡くなるか、植物人間の可能性もあると覚悟してください」と告げられた。
 口からの人工呼吸を長期間続けることは感染症の可能性を増す。喉を切開し、気道に直接パイプをつなぐ手術をするかどうかの判断を、家族は迫られていた。それは植物人間として長期間にわたって、医療機械によって生命だけを維持させるのかという選択を迫られるという意味合いもあったのである。
 ところが、その矢先、私は奇跡的に意識を取り戻し、自発呼吸も始めた。
 ICUから通常病棟に移った私を見舞った友人はこう証言している。
「君はまだしっかりしない意識の中で『まだ僕は死ぬわけにはいかないんだ』と譫言のように言った。『僕には世界平和のためにしなければならないことがまだ色々あるから』と」
 だが、私自身は自分がそんなことを言ったことなどとんと覚えていないのである。
 またそんな殊勝は心がけを普段から持っていたという意識もない。だが、何らかの力が、私にまだこの世に留まるように告げたことだけは、確かなことのように思えた。
 それからというもの、私の回復は、医者も驚く快調なペースで進んだ。痙攣が起こりやすく、すぐに転倒するという後遺症は残ったが、頭の中はすぐにはっきりしてきた。
 病室に自分のノートパソコンを運びこんでもらった私は、意を決して小説を書き始めた。文章はなぜか、するすると魂の底から流れ出て約一五〇枚の小説があっという間に完成した。
 見舞いに来てくれた作家の友人に私はその小説を読んでもらった。芥川賞作家である彼とは高校時代以来の文学仲間である。彼は私のベッドサイドで一気に小説を読み上げると「よくできている。だが、このままではダメだ。書き直す気はあるか」と尋ねた。私は即座に「必要なら書き直す準備はある」と答えた。
 彼はいくつかの簡単なアドバイスをくれた。私はそのメモを傍らにおいて、文体を研ぎ澄まし、結晶化させる作業に取り組んだ。今度は一一七枚で完結した。結局私は三ヶ月の入院中に四〇〇字詰に換算して二六〇枚以上もの原稿を書いたことになる。
 こうして完成した小説が「蝶を放つ」である。父の死と弔いを取り扱った私小説風の作品だが、そこには当然、自分自身が死の淵を体験したことが影を落としていた。
 書き上げてみると、青春時代以来、いや死を想いつつ眠りに就いていた五歳の夜以来、取り組んできた「生と死」というテーマが、ここにもまた通底しているのを私は感じた。いや、それは今回の「死からの生還」を経てまた新しく次の段階に入ったというべきであろうか。
 私は長い間、文学とは「青春の自己探求をどこまで持続的な営為とすることができるか」が命であると考えていたような気がする。だが今は、(それも全面的に否定するわけではないが)むしろ老いていくという過程の中でこそ、その文学的営為は研ぎ澄まされていくのではないかと思うようになった。
 私がこの小説「蝶を放つ」を「シニア文学」を旗印にしている鶴書院から刊行して世に問いたいと考えたゆえんである。
 しかし、私はこの小説を「いかに死んでいくか」を模索中のシニアにだけ読んでほしいと考えたわけではけっしてない。
 「いかに生きるか」と「いかに死んでいくか」は常に表裏一体の課題であるはずである。私は「蝶を放つ」というモチーフを、人生のとば口で巨大な「?」を抱えて震えていた、あの五歳の私のためにこそ投げかけたとさえ言えるのだ。

峻烈な峰を
霧に煙る
幽霊船が
風に吹かれて離れる

仄暗い蛹の中
細胞が溶けて
流れる
まだ濡れそぼった羽で
背中の殻を破り
Twice Born
金の指輪の
欠片(かけら)
のような
細い月
星集(すだ)く宇宙
無数の蛹から
蝶が羽化して
飛びたつ
地球と火星の間に
虹のアーチを架けて
渡っていく
無限の闇を
螺旋状に舞いながら
踊る蝶
銀河の桜吹雪
蝶たちは
地上の使命を終え
放たれる
空間と時間の尽きる
宇宙の果てで
光になる

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10代より世界放浪。様々なグルと瞑想体験を重ねる。53歳で臨死体験。31年の教員生活を経て現在は専業作家。https://note.mu/abhisheka

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