去年書いた文章がfacebookから出てきたので転載します。今年の2月も台湾の故宮博物院の特別展で、車椅子からだと非常口の緑の灯りが反射するモネがあった。子どももこれ、自分の背丈の位置から同じように見てるんだよなと思いました。
緑の非常口ランプが反射しているモネ
以下去年の文章
【車椅子での絵画の見方】(皆にとっても絵画の見方の参考になるはず)
久しぶりに美術館に行って、車椅子での絵画の見方について思うところあったのでメモしてみよう。
一つ目の問題は絵との距離だ。
たとえば、(今回あったわけではないが)ゴッホのいくつかの絵は近づきすぎると油絵の具の跡が塗りたくってあるのが見えるだけで、うわ、激しいと思うだけである。
ところが適切な距離をとって見ると、夜空に(描いてないはずの)星が無数に湧いてきたり、水面に映る街灯がゆらゆらとさざ波に揺れたりする。
ところがその距離を保とうとすると、「ゴッホの絵との距離」がわかってない人々の頭が前に並んでしまい、車椅子からは絵が見えない。僕は少し立てるので立ってみることになるが、頭越しに全体が見えない。運よく人波が途切れる瞬間は、日本にゴッホの絵が来たときには、とても少ない。
ゴッホを見るなら、外国か、日本なら少なくとも平日にして粘り強く人波が途切れるのを待たねばならない。
これにはひとつだけ裏技があって、眼鏡をとって目を細めるなどして、こっちで勝手に目の焦点距離をあれこれ変える。運がよければ成功する。
成功すれば、ゴッホのすべての絵は存在の中核にドーンとこちらを突き落とす。そして心身脱落する。
二つ目だが。今回、ルノアールなど印象派の絵をたくさん見たので思ったのだけど、照明と目の高さの関係は絵の印象を全く変える。車椅子に座っていると、当然視線は低い。絵は立って見る大人を想定して展示してあるので、照明の具合がベストではない。試しに立ってみると(いざというときは後ろの車椅子に倒れることにする)、わっと絵が浮かび上がる。画家が光をどう計算したかに、やや近づくのだと思う。
これでルノアールの薔薇を見たとき、薔薇の花びらが内側から万華鏡のように開きつづけるのがふわふわふわと見えた。かと思うと、実際には動いていない程度のおとなしさで、ゴッホのぶっとび感とは比較にならないが、とにかくルノアールは薔薇を描けている画家だと思った。
同じようにセザンヌの果物が平面的なように見えて却って存在感を増すことの秘密は、光との関係においてしかわからないと感じた。車椅子に座ったままではこのことを見逃す。
ということは、僕のように少し立てる人はいいが、立てない人には永遠にこれは見えないということになってしまう。どうしても見たければ、車椅子というものを大人の視線の位置になるように設計する必要がある。だが、そんなことをすると、他の場面で不便なことがありそうに思う。車椅子がコンパクトであることは大事なことだ。
まとめると絵を見るには、絵との距離、絵を見る視線の高さのふたつの要素が大事である。
これを間違うと画家の描いたものが見えないままに終わる。
この両方の点において、車椅子は不利であり、今後、車椅子の構造、絵の展示の仕方の両面から研究の余地がある。