劉暁波は天安門事件当時、アメリカのコロンビア大学の客員研究者だった。
そのままでいれば、安全な場所から発言し続けることができたが、帰国して民主化運動に身を投じた。
08憲章では中国の大幅な民主化を要求。
国家政権転覆扇動罪で投獄された。(懲役11年)
2010年中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった。
しかし、本人はおろか妻も授賞式への参加は許されなかった。
2017年肝臓癌による多臓器不全で死去。
享年61歳。
「私には敵はいない」 劉暁波最終陳述より
愛する妻よ、君の愛があれば、私はやがて下される審判に穏やかな気持ちで向き合うことができ、自分の選択を悔やむことなく、明日という日を楽観的に待ち望むことができる。
私は、自分の国が自由に意見を述べることができる場所になることを望んでいる。そこでは、国民ひとりひとりの発言がすべて同じように大切にされるのだ。そして、異なる価値、思想、信仰、政治的見解・・・それらが互いに意見を闘わせながらも平和的に共存できる。
多数意見と少数意見のいずれも平等に保障され、特に権力者の政治的見解と異なる意見が十分に尊重されて守られなければならない。
あらゆる政治的見解は陽光の下で明らかにされ、民衆からの選択を受け入れて、国民のひとりひとりが何の恐れもなく政治的見解を発表することができ、異なる政治的見解を発表したために政治的迫害を受けるようなことが決してあってはならない。
私は、自分が中国で連綿と続いている言論弾圧の最後の被害者となり、今後は言論を罪に問われる人が二度とないように望んでいる。
(引用終わり)
2012年、僕は初めて中華人民共和国に行った。
QQやスカイプだけで繋がっていた何人かの友人に会いたかったのだ。
それまでに中国のweibo(ツイッターのようなもの)に、中国政府批判や、劉暁波の釈放要求などを、中国語で書いていた僕は、入国審査のとき、少し緊張した。
入国審査官は、僕のパスポートを受けとると、パソコンの画面をにらんでいた。
その場で逮捕か、強制送還かもしれないと妄想した。
だが、やがて画面から審査官は顔をあげ、僕を入国させた。