台湾で首輪とリードをつけた犬を見なかった。皆、自分で歩いている。台北の市街なのに、、、である。
犬はきわめてお利口で、ちゃんと行くべき道を行くし、必要があれば、待てと言われたところで忠実に待っている。
この写真だが、店の中に飼い主が入っていって買い物をしているのだろうか。扉は開いている。犬は飼い主の姿を見ながら、待っている。前足だけは段に乗せているのがなんとなく絶妙な待ちのポーズである。じっと見ているのが、かわいいようなせつないようなただただ忠実なような。
たぶん人間以外の動物には時間の観念がないと思う。だから、もう何分ぐらいたったじゃないかとか、あと何分ぐらいかかるのだろうかとかは、考えることはしないと思う。
ただ待っている今があり、今があり、今がある。
待つということにはどうしても未来の結果までの直線的な時間の観念を挿入してしまうのが人間だが、犬は待っている今の中に止まっている。その止まっている感じも前足に出ていると思った。
僕はなんだか禅を習っているような気持ちになった。
日本なら、この待っている犬はどこかにリードでつながなければならないだろう。少なくとも街中ではそれがルールだと思う。
日本でも昔、田舎などでは、犬と人間の共存がこんな風にリードなしで可能だった。
今は少なくとも街では、必ずリードをつけ、スコップを持ち、散歩をしている。それはそれで都会のルールとして重要だとは思う。
ただその犬が、僕が近所を車椅子で行くとき、やたら吠えついたり、小さい体で僕に近づこうとあがいて飼い主に「だめよ!」と声をかけられ、リードを強く引っ張られたりすることが(日本では)多い。それでもまだ吠えてあがいている。
僕は思うのだが、それは犬の方でも飼い主に止めてもらえることを前提にして甘えている面がないだろうか。リードがなければ、本当に車椅子に飛びついてくるのだろうか。リードがなければ近づこうとあがかず、その場に止まって、まずは観察するのではないだろうか。そしてどのような距離が適切か、自分で判断するのではないだろうか。つまり日本の犬はリードのおかげで自分で考えなくてもいという状態におかれている気がする。
それはたとえばどこかしら日本の子どもにも共通する点がないだろうか。親か先生が止めてくれるから(支配されているから)自分で考えなくていい。わがままにしたら、リードを引っ張られる。後は本当は強いんだぞとでも言うようにギャンギャン喚けばいいだけだ。
うがち過ぎかもしれないが、そんなことまで考えてしまった、この光景である。